テレビとか新聞とかに発言の場を持っていて、「知識人」とか「論客」とか「社会派」とか「ご意見番」などと見なされている/呼ばれているような人について、「それについて発言するのなら、このくらいのことは当然、前提としているだろう」ということがある。何も分野違いのこと(例: 「英文学者だって、元素周期表くらいは覚えてますよね」)や、一般教養的なこと(例: 「シェイクスピアの名前くらい誰だって知ってますよね」)ではなく、その発言者の立場ならば、当然知っているだろうと見る側が想定しているものがある、ということだ(例: 「英文学者ならばシェイクスピアは当然踏まえてますよね」)。
しかしそれがそうでないこともある。「えっ、そんなことも知らないんですか!」と、テレビを見ていたり新聞を読んでいたりする人が「知識人」に呆れかえることになる。上の例でいうと、英文学者でシェイクスピアを踏まえていない人が、英国の文学史について語っちゃっていれば、見ている側は呆れる……というかガッカリするだろう(英文学は広範なので、シェイクスピアは分野が違うんですよー、ということはあるかもしれないが)。期待が大きすぎてそうなることもある。「ねーねー、英語、できるんでしょー?」っていう人(「英語ができる」=「辞書がいらない」だと思い込んでるレベルの人)から不意打ちで彼女の分野の専門用語を英語でどう言うかと質問され、「辞書を見ないとわからない」と答えて白眼視され、「辞書見ていいんなら、私だって英語できるよーwww」と嘲笑されたことがある。
個人的には、日本が国連安保理の常任理事国入りを目指すとかいうことで小泉首相(当時)が熱弁をふるっていた時期に、テレビ番組でコメンテーターとして出演していたあるベテラン・ジャーナリストが、どう考えても安保理の基本的な仕組み(常任理事国と非常任理事国とか、常任理事国の拒否権とか)を知らずに適当なことをしゃべっていて、司会者(アナウンサー)が冷や汗をかきながらそういった基本をそれとなく解説する(ベテラン・ジャーナリストに向かって「あなたの意見は前提が間違っている」ということを伝える)という場面を見て、ぽかーんとしてしまったことがある。そのジャーナリストが「私も専門外なのですが」という態度だったならわかるが、「その分野についていっぱしの知識があって語れちゃう人」として出てきていて、壮絶な基礎知識不足を露呈していたんである。
そんなときにそのジャーナリストに対し、「貴重な公共の電波で中学の授業みたいなことするなよ。そのくらい勉強してから出てこいや」と(多くの場合乱暴な言葉遣いで)思うか、「あなたの思い込みのおかげで、改めて基本が確認でき、それが周知されました。感謝」みたいな(「起きていることはすべて善」的な)ことを思うか、という大まかに2通りの反応がある。
安保理をめぐる無駄に基礎的なやり取りにぽかーんとしていた私は前者だ。「放射能はこわい」という感覚のみを増幅させる発言の繰り返しに対して、時として乱暴な言葉遣いで、「物を知らなさすぎる」と批判する人たちも、同様に「このくらい勉強してから出てこい」と思っている。こういうときの批判の「乱暴な言葉遣い」については是々非々があるだろうが、そのくらいガッカリした(失望した、落胆した)ということもあるし、そのくらい期待が高かった(「期待」という日本語もアレなんだがexpectation, 「予期」、「これくらいできて当然という見込み」)ということでもあろう。
そういう話だということだけちょっと書いておきたくなった。この件については私に「意見」などないし(そもそも「あたしの意見」などどうでもいい)、「民族」について議論はしたくないので絡んでこないでね。
東浩紀氏がアイヌ民族に関して無知をさらけ出している件 - Danas je lep dan.
http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20150406/1428265507
ここで何が指摘されているかというと、彼の「思想家」としての立場なら、また新聞などで発言の場を持っているという状況から、発言する前に少しは踏まえるべきものについて踏まえよ(「先行研究」がたっぷりあるのだから、それを参照せよ)ということだ。この「先行研究」についての当然払うべき敬意というものは、まともに勉学する大学の学部を普通に卒業した人なら、がっつり仕込まれてるはずなのだが。
(「踏まえよ」的な口調が「乱暴」だとか「罵倒」だとか思えてしまうガラスのハートの持ち主は、学術的な議論の言葉を見たら卒倒してしまうかもしれない。何しろもう10年以上前には既に、中学生の問題集から「次の方程式を解け」という口調が「乱暴だから」という理由で駆逐されて、「解きましょう」になってるんだから、いろいろとむき出しの言葉への耐性がない。「英語がえらそうだ」とかいうのもそれだと思うんっすよ)
しかし「ろくに知りもしないことで、えらそうなこと書いちゃってすいません」、「私の思い込みでした」の一言が、口調はともかくとして、なぜ出ないのか。理解に苦しむ。
ところでMukkeさんのブログにあったこの記述:
確かにある民族に帰属しているかどうかを最終的に決めるのは本人の自己決定だけど,でもそれは「自己決定で好き勝手に変更できる」ことを意味しない。ひとは何かの民族の中に生まれ落ちて余程のことがない限りそこから離脱しないし,離脱して他の民族共同体に参加しようとするには大きな困難を伴う。アイヌ民族否定論に抗する論者が「自己決定」を強調するのは,アイヌ民族の中にも和人の血を引くひとが大勢いることを捉えて「こんなに和人の血が混じっているんだからアイヌは独自の民族とはいえない! 既に同化している!」と主張する否定論者がいるから,「いくら和人の血が混じっていようが,アイヌ民族という自意識を持っていることが重要なのだ」と主張しているのであって,民族帰属の融通無碍な可変性を主張しているわけではないです。
http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20150406/1428265507
この点、何が問題なのかわからない人がいたら、「同化」とは逆方向のことがあったルワンダについて読むといいと思う。つまり、帝国主義の時代、欧州の支配者が(それまでにも対立していた)「ツチ族」と「フツ族」をはっきり分断し、「支配民族と被支配民族」としたこと(そしてその背後にあった19世紀の白人優越主義の思想)について。そして1994年のあのジェノサイドに至る数十年の間での分断の固定化と、暴力の常態化について。
それともそんなことは、「実感」できませんかね。
ジェノサイドの丘〈新装版〉―ルワンダ虐殺の隠された真実 フィリップ・ゴーレイヴィッチ 柳下毅一郎 by G-Tools |
ルワンダではきつすぎるという方は、英語で記事が探せることが前提だが、北アイルランドでのここ20年くらいの「民族」意識の変化(特にNorthern Irishという自認をめぐって)がとても興味深いのではないかと思う。北アイルランドでのBritish意識を持つ人々のIrish性についての認識(特に聖パトリックの日についての)なども、資料があれば非常に興味深いだろうと思うが、私もそこまで書かれているものは知らない(個人の語りとしてなら読んだことがあるが)。
ところでMukkeさん、はてブのトップページです。(連絡済)
ブコメより:
東さんはツーリズムからの発想にこだわっているけど、百年ほど前まで万国博覧会が少数民族をどう扱ってきたのかくらいは前提に置いた方がいいと思います。
http://b.hatena.ne.jp/yellowbell/20150406#bookmark-246451506
知らなかった人は、図書館などに行かなくても、ウィキペディアに「人間動物園」の項目があるよ!
異民族の生態的な展示は1870年代に様々な国で人気を集めた。ハンブルク、アントワープ、バルセロナ、ロンドン、ミラノ、ニューヨーク、およびワルシャワの各地に人間動物園があり、20万人から30万人の観客を集めた。野生動物商で、のちにヨーロッパで多くの動物園を開業したカール・ハーゲンベックは、1874年に「完全に自然なままの」民族としてサモア人とサーミ人を展示した。 また1876年には、彼はエジプト領スーダンから、野生動物とヌビア人を連れてこさせている。 ヌビア人の展示はヨーロッパで非常に成功し、パリ、ロンドン、ベルリンを巡業した。 また、彼はラブラドールのホープデイルで多くの"エスキモー"(イヌイット)を手に入れた。このイヌイットはハンブルクのハーゲンベック動物園に展示された。
「実感」できるかどうかは知らんけど、これは間違いなく、私たちの(強調しておく。「私たち」の)歴史だ。なお、「人間動物園」の項にはアイヌへの言及もたっぷりあるので、関心がある方、関心などなくても議論に乗っかりたい方は、ご一読をおすすめしたい。
心がささくれ立つね。そんなときにはアイルランド成分だね。今、本持ってくるからちょっと待っててね。(ゴソゴソ)
……持ってきたーよ (・_・)
アイルランドを訪れる者は、心にとどめておくべきだ。私たちは神の目から見れば、全員同じなのだが、全能の神は、アイルランドを、特別な目的を念頭に置いて創造したということ、を。すなわちアイルランドそのものを、他の国の人びとが、それについてロマンティックな思いを抱けるような場所としたのだ。アイルランド人は与えられた役割をうまくこなしている。たとえ本心では自分たち自身にロマンティックなところなど微塵もないと感じていながらも。また、アラン編みのセーターを着たり、アイリッシュ・コーヒーを飲むのは、まっぴらごめんだと思いつつも。
実際、最近、この国は、アイリッシュ・パブがほんとうにアイルランドに進出してくるという悪意ある根も葉もない噂に、うろたえてパニックになったくらいなのだから。もちろんアイルランド人はギネスを飲むが、ギネスは、今やアイルランド産ではない。醸造所は外国企業が所有している。アイルランド産にみえるもの、たとえばアイリッシュ・シチューとかダブリン市の創設などは、アイルランド産でもなんでもない。ただ、それでも、アイルランド人は、観光客を喜ばすために、「ダニー・ボーイ」を歌ったり、「ビゴラー Begorrah」(「バイ・ゴッド By God」がなまったものと言われ、「いやはや、まったくのところ」などを意味するアイルランド特有の間投詞とみられている)(アイルランドにいる誰も、これまで発したとは、認知されていない言葉)を口にする活動に黙々と従事している。ちょうど18世紀ロンドンにおける狂人たちが、見学者の訪問を受けると、口から泡を吹き、手首をひとしきり叩くのだが、見学者が帰ると、それまでの通常のふるまいに戻ったのと同じように。
――テリー・イーグルトン(大橋洋一・吉岡範武訳)『アメリカ的、イギリス的』河出書房新社〈河出ブックス〉、2014年、p. 96-97
おお、あいるらんど! 著者のテリー・イーグルトンはマンチェスター郊外のソルフォード出身の英国人思想家(!)だが、民族的にはアイリッシュで宗教的にはカトリックで、思想的にはマルクス主義である。
※ええ、イーグルトンがアイリッシュであることにも自己決定権は働いていますが(アイルランド系英国人が必ずしも「アイリッシュ」であるわけではない)、アイリッシュかどうかは「自己決定で変更できる」わけじゃないですよ。
この本、ページをめくるたびにお茶ふいているのでページがよれよれだ。しかしよくしゃべるよね、この人。この人の本を読むたびに感心する。博覧強記ってこういう人のことを言うんだよね。
アメリカ的、イギリス的 (河出ブックス) テリー イーグルトン 大橋 洋一 by G-Tools |
はい、そこ、「デリダが生きていたら」云々といわない。
たった一つの、私のものではない言葉―他者の単一言語使用 ジャック デリダ Jacques Derrida by G-Tools |
※この記事は
2015年04月06日
にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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