「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年03月24日

欧州極右のさらに右がロシアでごにょごにょ、という話題(それと、ジム・ダウソンについて)

3月22日にロシアのサンクトペテルブルクで開かれた「国際ロシア保守派フォーラム」についての23日付FT記事が、JBPressで日本語訳されている。

欧州の極右より、ロシアへ愛をこめて
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43288


これがなかなかすさまじいというか、BNPを追い出されたあとのニック・グリフィンがBNPのさらに右に行くことは予想できていたけれども、まさかロシアに行くとは…… (^^;) ああ、でもシリアに行ってたから、こうなるのは規定路線ではあったのかもしれない。

で、記事にはジム・ダウソンが出てくるのだが、彼は確かにスコットランド生まれかもしれないけど「スコットランドの活動家」ではなく「北アイルランドの活動家」と言うべきではと思う。つか、ダウソンはかの「ベルファストの旗騒動」の「中の人」の1人だ。家は北アイルランドだし。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jim_Dowson










ジム・ダウソンと離れ、気になるところをメモ。文中「平和自由同盟」は英語では "Alliance for Peace and Freedom" で、ウェブ検索すると、この「同盟」のサイト(といってもWordPressのブログ)のほか、「すとーむなんちゃら」などが出てくる。BuzzFeedの記事には、この「同盟」の正体を明確に示す画像が……

欧州の参加者に対するロシアの影響力がさらに拡大するかもしれない兆しがある。フォークト、フィオレ、グリフィンの3氏は皆、昨年結成された平和自由同盟と呼ばれる新しいグループのメンバーだ。この同盟は、ウクライナにおける北大西洋条約機構(NATO)と米政府の「戦争挑発」行為への反対を表明した。

 グリフィン、フィオレ両氏はインタビューで、この同盟は欧州の参加者と各自が所属する政党だけによって資金を賄っており、ロシアと関係のあるスポンサーは一切ないと断言した。

 両氏はさらに、ロシアの諸団体からの寄付も全く受けていないと主張した……

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43288?page=3


それと、この記事には出てきてないけど、NPDのフォークトと元BNPのグリフィンと来たら「反ユダヤ主義」についてウォッチしないという選択肢はない組み合わせ(それに「ネオナチ」というより「単にナチ」のギリシャのGDもこのお仲間に加わっている)。

ううむ。

see also:




うわ、「反ユダヤ主義」で、もろに言ってますね。

※この記事は

2015年03月24日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼