「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

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2015年03月19日

チュニジアの首都で、博物館が武装勢力に襲撃されて、観光客が殺された。

痛ましい限りだ。誰が博物館に古代のモザイクや彫刻を見に行って、武装勢力の襲撃を受けるなどと考えるだろう。

18日の夜、確認したいことがあったのでBBC Newsのトップページを見たときにチュニジアで何かが起きているということに気づいた。そのBBCの記事をざっと読み、すぐにTwitterで検索したりさかのぼったりして、報道機関の関連記事を読んで、Live blogを追っていたものの記録が下記である。

チュニジア、首都チュニスのバルド国立博物館を武装集団が襲撃、死者22人以上(日本人5人含む?)
http://matome.naver.jp/odai/2142668797952221401

※なお、死者数についてはまだ確定されていないようだが、日本語の報道では「死者19人、うち日本人3人」で落ち着いてきたようだ。日本人の死者数が減ったのは、「現地では5人と言われていたが、名前が重複してカウントされており、実際には3人」ということだそうだ。

日本人が犠牲となったということがわかったのは19日の朝、時間帯としては十分に明るくなった後だったが、その前の段階で、観光立国の比較的安全な都会の著名な観光施設(観光客なら誰でも行くような……パリのルーヴル美術館、ロンドンの大英博物館のような)で、昼日中に起こった襲撃事件ということで、1997年のルクソール事件を想起して、ぐるぐるしていたのだった。

あのときも、「チャラチャラと海外旅行などしているからそういう目に遭う」的な、欧米人が思いっきり勘違いして使っている「カルマ」(いわゆるbad karma)論みたいなのはあったと思う。「思う」とあやふやな書き方になるのは、そういうことを言う人は案外多くいるので、実際にそういう言葉を見聞きしたのか、誰かがそういうことを言いそうだなと予測していただけなのかなど、自分でも記憶がはっきりしないからだ。

事件のあったこの日は、政府要人の殺害を計画したとして逮捕された「イスラム団」のメンバーなど66人に対する裁判が始まる日でもあり、犯行が裁判に反対する意味を持っていた可能性もあると見られている。

エジプトでは、1997年(平成9年)9月18日にも首都カイロの中心部にある観光地のエジプト考古学博物館の前に停まっていた観光バスがイスラム原理主義過激派に爆弾と銃で襲撃され、乗っていたドイツ人ら10人の観光客が死亡し、15人のエジプト人が負傷している。 10月30日に、同事件の被告に対して、死刑の判決が出たばかりで、今回の事件は、現地ではこれに対する報復テロという見方もしている。

また、同年11月13日には、エジプト南部のテロリスト拠点となっている町の近くを通る鉄道で、観光客用の豪華列車が銃撃され、警察官など3人のエジプト人が殺された。

そして、同年11月17日、今回の事件である。

http://www.maroon.dti.ne.jp/knight999/egypt.htm


チュニジアは観光国だ。地中海の南岸に位置し、フランスの支配下にあったためフランス語が通じ、首都チュニスはフランスの支配を受けていた国外の都市らしい「おしゃれ」感があり、地中海だから古代からの歴史(の異物)は堆積している。英国など北方にあって天気の悪い地域からは、常に陽光が降り注ぐ「南の国」として、ゴルフ三昧ツアーなどで人気の地だし、時間をたっぷりかけて楽しむ地中海クルーズでも定番の訪問先である。

2010年12月に、内陸のシディブジドという町でモハメド・ブアジジという青年が焼身自殺をはかってからの1ヶ月ほどの間の動乱の後に当時のベンアリ大統領が退陣・国外脱出をしたことが、いわゆる「アラブの春」の発端となったのだが(その後、エジプト、バーレーン、リビア、イエメン、シリア……と続いたし、モロッコやヨルダンでも民衆の抗議行動に王室が対応ということになったし、単発っぽかった抗議行動もオマーンなどいくつかの国で起きていた)、その後、チュニジアだけが「比較的安定している」という状態になっていた。

しかし同時に、チュニジアは現在シリアとイラクに「外国人戦闘員」を最も多く送り出している国となっている(チュニジアからは3000人が「戦いに」行っている)。ヨルダンやサウジアラビアより多いのだ。その背景には、ローカルなモスクでの過激主義の横行があり、過激派とのたたかい(過激派対策)はチュニジアの政府にとっては常に大きな課題のひとつとなってきた。

そういったこともNAVERのページには書いておいた(まだ少し足そうとは思っている)。

襲撃されたバルド博物館は、チュニジアの国会(国民議会)の議事堂と同じ敷地にあり(その敷地が大きいのだが)、銃撃犯がまだ倒されていないときには国会議事堂はロックダウンの状態で、議員たちは階段か何かのような場所に集められていた。博物館がガンマンに襲われたときは議会では対テロの法律の審議中だったという。

そんなときに、国会議事堂に隣接する観光施設が襲撃され、20人もの観光客が殺されるなんてことが起きてしまった。

痛ましいとしか言いようがない。合掌



※この記事は

2015年03月19日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 13:11 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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