kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年03月18日

「被害者は口から泡を……」ということを、広く知られるようにする必要がある、ということ。

腫瘍内科医の勝俣範之さんによる「僕はサリンサバイバー」というブログ記事を読んだ。

あれから20年になるというので、語られることが増えていると思う。それらを読んだときに、何年か前なら、あの事件に直接的に関連することのほかは何も思い出すべきものなどなかった。しかし今は違う。

2013年8月21日、シリアの首都、ダマスカスの東にあるゴウタという町で、化学兵器が使用され、何百人も死んだと報じられた。



Twitterはほぼ即座にwhodunnitの様相を呈した。が、より慎重な人々の間では、兵器についての分析などをしている人たちと同様に、「誰がやったか以前に、何が使われたのかが問題だ」という態度が見られた。

そして「あの名称」はほどなく画面に現れた。

※この先は、1995年3月20日の東京での事件で心的外傷を受けている方は、閲覧はしないほうがよいかもしれません。シリアでの化学兵器の使用に関連して、トリガーになりうることを書いています。








現地の医師のことば:



こうした「現地からの報告」が次々と流れてくる中、過剰な猜疑心の主(シリアに関して「現地報告」なるものはすべて信用できないのがデフォ、と言い張る人々。「演技だろう?」論者)や陰謀論者(「ジサクジエーン」説など)の言葉もそれなりにあったと記憶しているが、(当時はまだTwitterがそれなりに「クラウド・ソーシング」の場として機能していて)報告されている症状が当てはまる化学兵器(毒ガス)は何だろうか、というジャーナリストのやり取りもあった。いくつかの毒ガスの名称が、私の見ているモニターには表示された。(自分がその名称を見て「毒ガス」だとわかるのは、1990年代半ばの、日本での、多くは物見高いだけだった報道のおかげだ。別に、私が興味を抱いて調べたわけではない。そのようにして人々に広く共有される知識というのは、「ニュースといえばテレビと新聞とラジオ」の時代には今より幅広く、浅かったように思う。)

数々の「テロ」攻撃のあったイングランドのロンドンを拠点としているジャーナリストも、「毒ガス」については、参照すべき具体的な経験はなかったのだろう。「口から泡をふく」という被害者の様子の報告に、「サリンでそのような症状が出るということが確信できない」と書いていた。

実際、ネット上の英語圏で検索して読める文書には、視覚への影響(暗くなる、ちかちかするなど)、痙攣、嘔吐、呼吸困難などは箇条書きにされていたが、「口から泡」は見当たらなかった。

むしろ、シリア内戦でゴウタ以前に化学兵器の使用が報告されたケースについて、"foaming at the mouth" is NOT a standard symptom of sarin exposure などと断定的に語られる個人のブログが出るほど、サリンでの「口から泡」という症状は知られていなかった。

(「説明書」や「症例集」のようなものがすべてだ、そこに書かれていないものは誤った報告だ、ということを信じている方はけっこう多いと思うんですが、それ自体が正しくないんですよね。専門家が読めば「説明書」の記述にも「含み」や「可能性の幅」が見て取れるかもしれませんが、素人はそういうところが読めないから素人なのであって、素人に言えることは「説明書に書かれているか、いないか」だけで、「説明書に書かれていない」ことを「標準的ではない」と断言するのは、飛躍です。でも、これが「飛躍」だということは、なかなか通じないんですよね。「説明書には書かれていない」という原稿が、いつの間にか編集のプロセスで「標準的ではない」に書き直されているというようなことはあると思います。)

しかし、1995年3月20日の東京での事件を日本での報道で知っている人には、「口から泡」が「サリンの症状ではない」と言いきれる人など、誰もいないだろう。私の場合、「サリン」と聞くと「口から泡」を第一に連想するくらい、はっきりと記憶されている。そのくらい、強調されていたと思う。

なので、シリアでの化学兵器使用に関して「サリンの被害者は口から泡を吹く」ということを疑問視しているジャーナリストに、「1995年の東京で確認されている」ということを伝えたくて、英語でのソースを探したのだが、残念ながら検索した範囲では伝えられるソースはなかった。しょうがないので日本語のソースを示して、「日本語だが、ここに報告されている」ということを伝えたが、それ以上のことはできなかった。

勝俣医師のブログ(これを書いてくださったことに心から感謝したい)を拝読して、そんなことをまた思い出している。

8時を過ぎたあたりでしょうか、電車が八丁堀駅で突然止まりました。しばらくすると、車内放送で、
「ホームで病人が倒れています。医療関係者のかたがいらっしゃいましたら、お願いいたします。」
医師の免許をもらってから、このような場面に遭遇することはしばしばあり、救急病院での経験もあったので、ホームに降りてみました。すると、ホームの真ん中あたりで、人だかりができており、そこに50歳代くらいの女性が泡をふいて倒れていました。既に心肺停止している状況でありましたが、瞳孔は縮瞳している状況でした(瞳孔が開いていると、脳神経機能がなくなっている状態)ので、まだ助かる可能性があると思い、その場で、人工呼吸(マウスツーマウス)と、心臓マッサージを始めました。

……林泰男(死刑囚)がサリンをまいた列車は、築地駅に止まったことから、私が乗っていた列車の一本前だったことがわかりました。私が介抱した患者さんは、林死刑囚がサリンをまいた列車に乗っていて、八丁堀で降りたところ、駅の構内で倒れてしまったのだと思います。……

http://nkatsuma.blog.fc2.com/blog-entry-813.html

勝俣医師は、日比谷線のプラットホームで負傷者の手当てをしているうちに、ご自身がサリンにやられてしまった。

あの日、私は仕事が午後スタートで、8時過ぎに起きてテレビのニュースをつけてみたのだった。既にヘリが飛んでいて、確かこの番組(司会者がこの人だったことを覚えている)で、築地駅をヘリから撮影した映像に、司会者が「毒ガスのようです」と言っていたのを覚えている。

そういったことも、語り残そうとしない限りは消えてしまう。日本語圏は、報道機関が自社報道をアーカイヴするという発想がまるでないので問題は深刻だ(英語圏では、少なからぬ報道機関のサイトで、検索すれば90年代のネットが普及したあとの報道記事は出てくる。BBCでもガーディアンでも、1998年4月の北アイルランド和平合意についての細かい記事などが、今でも普通に読める)。

さらには私が「口から泡」で接したような、「英語になっていない情報は(読まれえないので、事実上)存在していない情報である」という状況。

意味などない常套句としてよく(特に「マスコミ」の人によって)口にされ文字にされる「事件を風化させてはならない」などという空疎な決意(らしきもの)以前に、単に、「記録物」が残らない、残る・残らない以前に存在しない、という状況。

入院当初は、サリンが原因とはわかりませんでしたので、全身浴やら、強制利尿やらをされました。午後になり、サリンが原因とわかり、硫酸アトロピンの持続点滴が始まりました。唯一の解毒剤とされるのは、PAM(解毒剤であるプラリドキシムヨウ化メチル)ですが、主に聖路加病院や都立墨東病院に入院した患者さんに使われたそうで、私にまでまわってきませんでした。
警察のかたが来られて、着ていた衣服から、かばん、めがねまで全て調査のためにと、没収となりました。……

サリンと聞いても、当時は、その9ヶ月前くらいに松本サリン事件が起きましたが、事件の真相もわかっておらず、医学的な知識はまったくありませんでした。有機リンに似た毒ガスの一種くらいの情報しかなく、全貌は明らかではありませんでした。

http://nkatsuma.blog.fc2.com/blog-entry-813.html




ゴウタでのサリン攻撃当日のBBCニュースのトップページ:


ゴウタでは数百人が死亡し、数千人が負傷した(「正確な統計」は存在しない)。国連の調査の結果、サリンが使用されたとの結論が出された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ghouta_chemical_attack

(この攻撃について言われていることを、相応の準備もなく、ただ好奇心から細かく見ていると、精神を病む可能性があると思う。)

シリアでは、今もまだ化学兵器使用の報告がある(塩素ガス)。ISISのほうはいかなる法的枠組みでもどうすることもできないのでやむなく措いておくとして、アサド政権の側が使っているということは、「塩素ガスは化学兵器(既に2014年半ばにはOPCWが国外搬出完了を宣言していた)に入らない」という事実の重みをつきつける。そう、いかに武器・兵器を禁止しようと、たる爆弾のようなcrudeなもの(あれは、戦争で使われる兵器というより、巨大化したパイプボムだと認識したほうがいい)や、塩素ガスのようなものは禁止対象にすること自体ができない(そして、「禁止されていないので合法だから使ってもよい」論がまかり通ることにもなる)。

イスラム国が塩素ガス3回使用か、クルド部隊「多数が被害」
2015年3月17日
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0MD07020150317
[アルビル/バグダッド 16日 ロイター] - 過激派組織「イスラム国」と戦闘を続けるイラク北部のクルド自治政府の当局者は16日、イスラム国による塩素ガス攻撃が先に発表したもののほかに2回あったと明らかにした。

クルド人勢力の治安部隊幹部は記者団に、イスラム国が1月、北部モスル西方の戦闘で塩素ガスを2回使用したと指摘。12月にはシンジャルの山岳地帯で塩素攻撃が1回あったとした。

クルド当局者は15日、モスル近郊で1月23日に塩素攻撃があったと明かしていた。

治安部隊幹部は、攻撃により多数の兵士が病院へ搬送され、血液検査の結果、塩素ガスを吸い込んだことが分かったという。


シリア政府軍が化学兵器使用か、子ども含む6人死亡
2015年3月18日10:46
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2447253.html
内戦が続くシリアで化学兵器を使ったとみられる爆撃があり、子どもを含む6人が死亡しました。人権団体などは、政府軍が化学兵器を使用したと主張しています。

 病院で窒息症状を訴える人々。これは、シリアで救援活動をする民間団体がインターネット上に公開した映像です。

 イギリスに拠点を置くシリア人権監視団などによりますと、16日夜、シリア北西部イドリブ近郊の村で、化学兵器を使ったとみられる爆撃がありました。この爆撃で、子ども3人を含む6人が塩素ガスによるとみられる窒息症状を起こし死亡しました。シリア政府側はロイター通信などの取材に対し、化学兵器の使用を否定しています。

 シリア政府は国連決議に基づき、保有していたマスタードガスやサリンなどの化学兵器を廃棄しましたが、その後も、塩素ガスを使った爆弾が内戦で繰り返し使われていると指摘されていました。


今年、2015年は、第一次大戦でのドイツ軍の塩素ガス使用から100年だ。
ドイツは毒ガス開発で他国に大幅に先んじる事となり、1915年1月31日、ドイツ軍が東部戦線のボリモウ(Bolimow)でロシア軍に対して初めて大規模な毒ガス放射を実施した。さらに4月22日にイーペル戦線でフランス軍に対して塩素ガスを使用し、化学兵器の脅威が世界的に知られるようになった。この戦いでは5700本のボンベに詰められた150〜300tの塩素が放出され、フランス軍を局地的に壊乱状態に陥れた。イギリス軍も同年9月には塩素ガスを使用した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E5%AD%A6%E5%85%B5%E5%99%A8



※この記事は

2015年03月18日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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