「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2015年03月18日

Happy St Patrick's Day! と言いつつ、ポリティカルなおじさんたちがなかなかめんどくさい状態に。

毎年恒例3月17日。今年は北部6州周りはいろいろアレですが、まずはアイルランドのアイドルでなごみましょう。

アイドル(1):




アイドル(2):




一方、ポリティカルなおじさんたちは相変わらずというか、いつにも増してめんどくさい。

北アイルランド自治政府の2トップが訪米を取りやめたときにはすでに、各党の代表団が米国入りしていて、シン・フェインも昨年ロード・メイヤーとして「次のステップ」を実践する上で大変な存在感を示したマーティン・オミュラーさんなどがアメリカから楽しげなツイートをしていたのだが、あいあーる……ええと、シン・フェインの親分党首であるジェリー・アダムズ(既に米国入りしていた)と米国務省との会談はキャンセルされた(UUPやSDLPは予定通り会談する)という報告があって、そっちは(少なくとも外交の形式上は)関係ないんじゃね、と思っていたらなんかこんなふうになって:




そのわりに「国務省が変です」などと言っているし:






(ああ、意味がわからない・・・誰が、あるいはどちらが、hokey pokeyですって?)




藪からスティックにポーグ・マホーンって言ってますが、このおじさん。



しかし17日になってみれば:






(ときどきジェドワードと区別つかなくなるよね)











これは国務省ではなく米議会の代表者との会合だけど、パット・フィヌケンのインクワイアリが議題に上っているということは、米国から英政府への圧力の方向ということか。5月の総選挙で労働党の政権になったら実現するかもしれないですね。あと、「記録されていないアイルランド人(米国への移民)」の件。これは「歴史の回復」という問題。




そんなこんなで「外交」してるじゃん、というところでベルファストから漂ってきたのがこのお話。




セント・パトリックス・デイは「アイリッシュ」の祭りであり、「ブリティッシュ」は受け容れない、というのは、少なくともここ10年くらいは「めちゃくちゃ強硬派の人たちはそうかも」というふうで、2012年に「旗騒動」が起きたあとも3月17日のベルファストから何か「騒動」、「騒乱」系の話が聞こえてくることはなかったと思うんだけど、今年はUKの選挙前ですからね……。

一方でこんなのもあったり。




まじかこれ、あのジェフがこれか

いろいろとめくるめくようです。



※この記事は

2015年03月18日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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