「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2015年03月15日

北アイルランドのこの40年の写真集に、いろいろと隣り合わせなのだなと思う。

北アイルランド報道写真家協会 (NIPPA: The Northern Ireland Press Photographers Association) が40周年とのことで、ベルファスト・テレグラフが過去約40年の北アイルランドの写真を38点集めた写真集を公開している(40年以上前のものもある)。

Northern Ireland Press Photographer of the Year: 40 years of iconic images
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/northern-ireland/northern-ireland-press-photographer-of-the-year-40-years-of-iconic-images-31062487.html


報道写真家たちが撮影してきたのが「紛争」の光景だけではなかったということがよくわかるが、逆に言うと、ランダムすぎてやや分かりづらいかもしれない。

1点目はサッカーの北アイルランド代表としてボールを蹴るジョージ・ベストだ。彼がNI代表でプレイしていたのは1964年から77年で、写真は70年代半ばと思われるが、キャプションが詳しくないので、さらに調べてみないとわからない。ちなみに今年はジョージ・ベスト没後10年で(早いものだ)、息子のカルム・ベスト(モデル)が本を出したりしている。




2点目は「紛争の終わり」を象徴する有名な写真。Time for peaceと書かれた壁の前で子供が遊んでいる光景。3点目は「紛争」の有名な写真で、父親の棺を担いでいく武装組織の男たちの間に見える幼い女の子。4点目は「紛争」そのもので、マイケル・ストーンによるミルタウン墓地襲撃。5点目は1972年1月30日、デリーのあの一枚……と来て、次がいきなり「サッカー馬鹿」の写真。1982年のワールドカップ・スペイン大会に出場を決めた瞬間のファンの姿(ちなみにこの大会では準々決勝まで進んでいる)。ジャージも靴もアディダスだ。次は「旗騒動」の「中の人」のひとり、ウィリー・フレイザーの、思わずふきだしてしまうような写真。その次、8点目は1998年和平合意によるノーベル平和賞の2人と、目立ちたがりの芸能人。9点目はポータダウン紛争(オレンジ・オーダー)。

こんな感じで、写真家たちがとらえたさまざまな瞬間が、わりと脈絡なく、38点続いている。

以下、はしょるが、11点目が元武装勢力メンバーと紛争の被害者との対面をオーガナイズするためにベルファストを訪問したデズモンド・ツツ大司教(当時)。13点目はレバノンで4年間も人質として武装勢力に拘束されていたブライアン・キーナンさんがベルファストに戻ったときのシティ・ホールでの歓迎の様子。これらの写真は見たことがなかった。

15点目に例のおもしろ写真。

こんな感じで、「紛争」の光景、「政治」の光景、「スポーツ」の光景などが次々と出てくる。

個人的に「ほへぇ」と思ったのが19点目だ。キャプションは:
Barry McGuigan, the boxer from Clones in the Irish Republic, who united protestants and catholics in support of him, returns to a hero's welcome in Belfast after wimming a world boxing title.


イアン・ペイズリーの主催したデモかというような大群衆の中、Welcome home, Barryというバナーの前で勝者として凱旋するプロボクサー、バリー・マクギガン。ウィキペディアを見ると、世界タイトルをとったのは1985年6月だ。彼はアイルランド共和国の出身だが、「紛争」のさなかにあってカトリックもプロテスタントもなく彼を応援していたという。
http://en.wikipedia.org/wiki/Barry_McGuigan

まさに、この年の11月にはアングロ・アイリッシュ合意でプロテスタントの側が噴き上がろうとしていたわけで、その直前にこのような光景がベルファストで見られていたということに、非常な感慨をおぼえる。

なお、「プロテスタントもカトリックも」宗派を超えて応援したスポーツ・ヒーローとしては、ジョージ・ベスト(サッカー)、アレックス・「ハリケーン」・ヒギンズ(スヌーカー)の名前がよく挙げられる。

24点目もおもしろい(知らなかった)。1977年、ベルファスト動物園からライオンが逃げ出して、麻酔銃を撃って捕獲するということがあったそうで、その一幕。

38点からなる写真集の終盤は、スポーツの決定的瞬間や、美しい風景の写真が次々と出てきて気持ちが和むが、気を抜いていると非常に強烈な写真が突然出てくるのでご注意を。

NIPPAの写真集:
0954963377Out of the Darkness: 40 Years of Northern Ireland Press Photography
Roisin McDonough John Harrison
Golden Thread Gallery 2007-07-01

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ベルファスト・テレグラフの写真集は、NIPPAの今年の報道写真大賞発表にあわせて行なわれるシティ・ホールでの写真展の告知で、今年の大賞受賞作はNIPPAのFBのページで公開されている。

何点かとてもおもしろいものがあった。シャンパン・グラスの中にさかさまに投影されているのは東ベルファストのランドマークだったり、リスちゃんを撮影したかっこいい写真がトリコロールの色合いだったり、なぜジャイアンツ・コーズウェイでそれという写真があったり、みんな違ってみんないいんだが、誰も優勝国当ててないとか、7月のボンファイア、ものすごかったっすなあとか、自転車レースでかわいくなってましたねとか、映画Jimmy's Hallの一幕みたいだなどなど、見ていると楽しい。政治家が眠そうなのとか、絵になる政治家といったらくまちゃんあひるちゃんを超える人がいないのかなあとかいうあたりでは、いろいろと思う。そして見終わったあとに気づくのは、対象年の9月12日に亡くなったあの大物関連の写真が1点もないということ。

そういえば、ベル・テレさんの「40年を振り返る38点」でも、好々爺になったあとの写真1点しかなかった。

一方でくまちゃんあひるちゃんはこれですよ。この人、こんな顔してるんですね。知らなかった。ほんとに。これらの写真は、エニスキレンの新聞、インパーシャル・レポーターのロドニーさんが発案した「ジェリー・アダムズだけど質問ある?」のTwitterセッションのときのもの。



ジョージ・ベストについてはこの本がおすすめ。

4582855245ジョージ・ベストがいた マンチェスター・ユナイテッドの伝説 (平凡社新書)
川端 康雄
平凡社 2010-05-15

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でも川端康雄さんといえばウィリアム・モリスですよね、やはり。。。

ユートピアだより (岩波文庫)ユートピアだより (岩波文庫)
ウィリアム・モリス 川端 康雄

ウィリアム・モリスのマルクス主義 アーツ&クラフツ運動の源流 (平凡社新書) ユートピア (岩波文庫 赤202-1) 図説|ウィリアム・モリス―ヴィクトリア朝を越えた巨人 (ふくろうの本) 社会主義

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※この記事は

2015年03月15日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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