「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年02月25日

サッカーとレイシズム……"我々はすでにその戦いに勝利したと油断してしまっていたのかもしれない"(ベン・メイブリーさん)

パリにチェルシーのサッカーの試合を見に行ったらしい英国人がメトロで黒人男性を突き飛ばして乗車を妨害し、「人種主義が俺らのやり方、その何が悪い」みたいなチャントをした件は、「うー 」とならずにはいられない形で北アイルランドが絡んできてしまったのだが、北アイルランドとは別に、イングランドのサッカーと人種主義という点について、1980年代以降にどんなことがあり、どんな取り組みがなされてきたかを、ベン・メイブリーさんがコンパクトにまとめて書いてくださっている。必読。









スタン・コリーモア(コリモア)については、パリでの一件に関連づけて、グラスゴーの青いほうの観客席のひどいお歌を理由に「あそこの試合のテレビ放送はやめるべき」と発言して大炎上ということを既に書いた。現在40代半ばの彼は、プロのフットボーラーとしてまさに、ベンさんが書いているような「パラダイム・シフト」の現場にいた。行動の奇矯さには「ちょっとなあ」と思っても、人種主義に関するこの人の言葉は、見ておいてよいのではないかと思う。

一方、チェルシーとの間に激しい感情のあるクラブのひとつであるウエスト・ハムのサポの人が下記のようなパロディを作って、話題になっていた。




こんなのを見せられた日には、下向いて笑っちゃうしかない。

ウエスト・ハムとチェルシーの間柄は、こんな写真でわかるのではないだろうか。(やや下品)




だがそのウエストハムだってこんなことでニュースになってるわけで……
















これは、うちもですね……白いとこに対するには一番お手軽。でもほんと、やめてください。







※リンク先のブログの注意書きより:
Website Editor 13:35pm 10th Sep 2014

This piece is not about the Arab-Israeli conflict and the situation in Gaza. it is about racist chanting amongst Arsenal supporters. Please let's have a sensible debate without descending into vitriol. It should be remembered that Arsenal have a very large number of Jewish supporters, just as Tottenham do, including the likes of David Dein and the late Danny Fiszman


※この記事は

2015年02月25日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼