「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年02月25日

「報道の独立性」と「広告掲載メディアという現実」の狭間で、あえて正論を叫ぶよりない人(英国の事例)

果たして「報道の独立性」なるものが実在するのかどうか、それは《追うべき理想》に過ぎないのではないか、といった議論もあるだろう。しかしそれでも、私企業が所有する報道機関であれ、国家が所有もしくは運営する報道機関であれ、報道機関における「報道の独立性」は前提である。具体的には、「会社の経営判断」や「国の方針」が「何を報道するか(何を書くか、何をニュースとして放映するか)」を左右することがあってはならない、ということ。そして「会社の経営判断」では、現代の実情としては、「広告主の機嫌を損ねないこと」が大きい。ある自動車メーカーの広告が掲載されている新聞で、その自動車メーカーの「リコール隠し」という問題が、まったく、もしくはほとんど書かれない、ということは、あってはならない。少なくとも「あってはならない」こととされている。

しかし現実にはどのようなことが起きているのか。もう先週になってしまったが、英国で、「保守主義の名門新聞」の誉れ高い新聞の内情に嫌気がさしたあるベテランの書き手が、重厚長大な「告発文」をOpenDemocracyにアップして、その新聞をやめた。




上記の「NAVERまとめ」のページは、アップロードできる状態にするのに時間がかかってしまったが、2月18日に私の見ている画面を埋めたPeter Oborneの「告発文」と、それに対する英国のジャーナリストたちの反応をアーカイヴしたものだ。

その少し前、アメリカではNBCの看板ニュースキャスターが大法螺をぶっこいていたことが明らかになり、アメリカのジャーナリストたちが個人的に呆れているツイートがたくさん流れてきたが、全然違う質の「メディア・ゴシップ」である。

ピーター・オーボーンのこの告発のあとのことは、またアップデートしたいとは思っている。

オーボーンの「告発文」を読後に興味深いと感じられたのは、彼があの長い文章において「(国民/民衆/一般人/読者の)知る権利」での立論をしていないところだ。日本語圏なら確実にそれがメインの立論の柱か、少なくとも重要な要素のひとつになっていただろう。そういう誇大妄想・自意識過剰の言説(もしくはターム)が「この国」のマスコミ様のベースにあることは、残念だが、否定できないことだ。(過去の実例だが、記者個人が天皇お言葉から「放射能」というワードを取り去ることは「普通の編集」であると個人の発言の場で言い張る一方で、新聞の紙面には、特に社説などで「知る権利」というセットフレーズが多用されていることが、「中の人」たちの間で疑問視されている気配すらないのが日本だ。論理的に考えるってことができないからね。)

オーボーンが「読者」について述べている部分には「知る権利」という語は出てこない。そうではなく「伝える義務」が出てくる。この語りこそ、「保守主義 conservatism」の本質ではないか。

This brings me to a second and even more important point that bears not just on the fate of one newspaper but on public life as a whole. A free press is essential to a healthy democracy. There is a purpose to journalism, and it is not just to entertain. It is not to pander to political power, big corporations and rich men. Newspapers have what amounts in the end to a constitutional duty to tell their readers the truth.

https://opendemocracy.net/ourkingdom/peter-oborne/why-i-have-resigned-from-telegraph


「告発文」を読めば、オーボーン自身、日ごろから「マードックのメディア」には極めて批判的であるということはわかるが、「読者と私」のような誇大妄想・自意識過剰は、私にはうかがえなかった。もしそれがあったら途中でうんざりして最後まで読めなかったかもしれない。



日本での「広告主に配慮」系の話で、印刷前に取り下げたというのを聞いたことがあったなあと思ったのだが、記憶がはっきりしない。この件かもしれない。印刷前にもれてしまうなんていうことが起きるのは遺憾なことだが、この書きようを見るに、そう珍しいことでもないのかもしれない。

※この記事は

2015年02月25日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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