「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2015年02月24日

貴重な資料の山に埋もれていたとてつもなく貴重な資料が発掘され、「もうひとつの国」の個人的物語が語り直される。

米アカデミー賞の司会者は、エドワード・スノーデンについてtreasonという言葉をネタにして笑いを取りにいった(のだがつまらないと批判された)。授賞式後のRedditのAMAでは本人がそのことについてしゃべっている

アメリカってのは、「機密の暴露」に関連してtreasonなどの言葉がぽんぽん飛び出すお国柄なんだ(←イヤミ半分)ということがわかったのは2010年、ウィキリークスがアフガニスタン戦争とイラク戦争のログに続き、外交公電という大型リークをしたときのことだった。Treasonだのespionageだのといった言葉が飛び交うのを見て、「冷戦期じゃあるまいし」というのが率直な感想だった。

というわけで23日付のBBCの記事。本当に「冷戦期」のスパイ活動について、超貴重なものが今回発掘されたというお話。

The forgotten interview with Cambridge spy Guy Burgess
http://www.bbc.com/news/uk-31588063


ガイ・バージェスは、映画『アナザー・カントリー』のガイ・ベネットのモデルになったといわれる実在の人物のひとりだが、すっかり忘れ去られていたその彼のインタビュー映像が見つかった。

映像は、1959年1月にモスクワで彼がパートナーと一緒に暮らしていたフラットで撮影されたもので、バージェスはイートン校のネクタイとキャメルのコートという姿で画面に現れるという。これを「まさにイングランドの上流階級の洒落者の姿」だとBBCは書いている。

インタビューを行なったのはカナダのCBC。ガイ・バージェスがモスクワで西側の(このWesternは「西洋の」じゃなく「西側の」だ。何も迷う必要はないのが感慨深い)カメラの前で語ったのは、これが唯一の機会だったと考えられる、とBBCはいう。

ガイ・バージェスは海軍士官の息子で、ダートマスの王立海軍学校に通ったが軍人にはならず、イートン校からケンブリッジ大のトリニティ・コレッジに進み、保守主義者のクラブに参加しながら、極秘の弁論クラブに誘われて入った。このクラブでバージェスと一緒に活動していたアントニー・ブラント、ドナルド・マクリーン、キム・フィルビーがコミンテルンによってリクルートされた。1930年代のことだ。彼ら4人と、もう1人、まだ誰なのか特定できていない人物の5人が、「ケンブリッジ・ファイヴ」と呼ばれるスパイとなり、エリートでなければ知ることのできない英国政府の機密を、第二次大戦中から1950年代にかけて、ソ連(当時)に流していた。

バージェスとマクリーンは、第二次大戦終結後、外務省職員として連合国による復興再建計画(マーシャルプラン)の現場の情報を知る立場にあり、それらの情報をソ連に渡していたのだが、1951年5月に姿を消し、その後5年はまるで音沙汰がなくなっていた。1956年2月にモスクワに現れ、KGBの手はずでごく少人数の西洋の記者と会見したが、そのほかはとにかく目立たずに暮らしていたという。

そんな「大物スパイ」が姿を消してから8年ぶり、マスコミの前で口を開いてから3年ぶりに、今度はテレビのカメラの前でしゃべっていたとあれば、相当な大騒ぎになっていてもよさそうなものだが、そうなっていなかったらしい。こんな「特ダネ」があればバージェスの母国であるイギリスの新聞が食いついていてもよさそうなものだが、新聞はどこも注目していないという。

インタビューをしていたのはカナダの公共放送CBCの「クローズアップ」という、話題の人を訪ねるなどの「マガジン」と呼ばれるジャンルの番組で、その番組のプロデューサー自体がインタビューの重要性に気づいていなかったとBBCの記事は指摘している。

同じ回に、「文壇サロン」の大物で詩人のエディス・シトウェル (Edith Sitwell) のインタビューもあり、録画した媒体に貼られたラベルには、番組名、放映日などのほかは、「エディス・シトウェル」の名前しかない。

そうしてバージェスのインタビューの存在は、アーカイヴの奥深くにうずもれていた。

2011年に「ガイ・バージェス」、「スパイ活動」というキーワードをつけて再度カタログ化されたときも、重要性は見過ごされたという(2011年では「冷戦期のスパイ活動」は過去のものになっていたし、資料整理の仕事の人が若ければ名前を見ても気づきもしなかったかもしれない。あるいはそのときには完全に有名な名前になっていたので、テープが出てきても「きっとこれまでに資料映像として使われていたものだろう」と決めてかかっていたかもしれない。こういうことは、本当に何がどうなっているか、わからないものだ)。

そして、CBCのアーカイヴ担当のArthur Schwartzelさんが、冷戦に関する資料を探している社員の手伝いをしているときに偶然このテープを発見した。ここでようやく、CBCがどの程度の資料なのかを確認しようとロンドンのシティ・ユニヴァーシティのStewart Purvis教授らに連絡したことで、この「忘れられたインタビューテープ」の存在が表に出てきたという。

BBCの記事はまだまだ続いていて、発掘されたこの映像がどのようなものかも解説されているが、本稿はこのへんで。

今回見つかったテープは2月23日のNewsnightで放映されたというので、英国にいる方はしばらくは(7日間は)iPlayerで見られるはず。

極めて興味深いのは、バージェスは「ソ連に暮らし続けていきたいが、1ヶ月くらいイングランドに戻って、親の顔を見たい」といったことを語っていたということだ。

そういえば映画『アナザー・カントリー』も、年老いたガイ・ベネットがモスクワのフラットで、女性のジャーナリストのインタビューに答えるシーンで始まり、最後も「インタビューで語る言葉」で締めくくられている。が、そこで示されていた「寒い国に逃げていったスパイ」の意思は、「自分を成功させなかったイングランドにはもはや何の愛着もない」というものだった。

この映画が当時の似たような「パブリック・スクールもの」の映画と一線を画していたのは、国家、システム(体制)といったものと「個人」との関係を《物語》の軸に置いていた点で、「イングランドになどもはや何の愛着もない」ということを冷たい口調で語る主人公が、それを決定付けていた。しかし、その彼が逃れて言った「もうひとつの国 another country」というのはどんなところなのか。それはまったく描かれていなかった。

その「見たいものだけ見ている」という視点が私にはとても興味深かったのだけれども、この映画は、今見たらどう見えるだろうか。

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ちなみに、ガイ・バージェスらを含む「ケンブリッジ・ファイヴ」のスパイ活動の存在と、誰がスパイであるのかの究明の取り組みは、フィクションとしても語り直されている

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※この記事は

2015年02月24日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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