この記事の筆者の関口涼子さんは、フランス語と日本語の翻訳をしておられる方で、シノドスには「翻訳家、作家」とある。つまり、言葉を使って何かを表現する専門家である。そしてこの記事は、大筋、日本語の新聞記事でフランス語のpardonner (英語のpardon) が「赦す」ではなく「許す」と《訳されて》いることを、《誤訳である》と指摘するものである("私が翻訳者としてこの記事で指摘したいところは、この記事に見られる重大な誤訳なのだ"、"読売新聞の記者は、このデッサンに「自分が読みたいことを読んだ」のかもしれない" と書かれている)。(ちなみに、あのような絵は日本語では「デッサン」とは言わない。「スケッチ」、「絵」である。)
私はのけぞった。そして、はてなブックマークで人々が「感心した」などと絶賛なさっているのを見て、寝込みたくなった。
なぜなら「許す」と「赦す」は、《誤訳》の問題では全然なく、《表記》の問題だからだ。読売新聞の記事を書いた人は《誤訳》などしていないのだ。
「赦す pardonner」(英語ではforgive)の概念を説明することは必要だし、それがなされたことはよいことだと思うが、しかし単なる事実として、この新聞記者は誤訳などしていない。
新聞記事では「赦す」という漢字は使えない。その代替として「許す」という漢字を使うことになっている(常用漢字)。それがまるで知られていないだけならまだしも、それゆえに「誤訳だ」と呼ばれ、それで大勢の人が納得してしまうという事実に、冗談ではなく本当に血の気が引いた。
《表記》について、これまで知らなかったという方には、下記のような出版物をチェックしてみていただきたい。公共図書館にも置いてあるはずだ。一般によく参照されるのは共同通信社の用字用語集だと思う(シノドス掲載記事で挙げられているのは読売新聞の記事だが、「許/赦」は常用漢字に関する表記基準なので、どの社でも変わらないはず)。
記者ハンドブック 第12版 新聞用字用語集 一般社団法人 共同通信社 編著 by G-Tools |
まどろっこしくなるが、「表記基準」、「用字用語」というものについて少し説明をしておこう。なお、「用字用語」は文章の内容とは関係ない。単に形式面での基準である(したがって「検閲」ではない)。
日本語圏で他人の目に触れる文には2種類ある。筆者が好きなように書いたものと、既定の「表記基準」に従って編集されたものだ。前者には文学作品などがあり、後者には新聞記事などがある。例えば文学作品では外来語や擬音語をひらがなで書いたって構わない。書き手がそう書きたければ、「ぴあのをぽろぽろと弾いた」「ぶらんこがぎーこ、ギーコと音を立てた」でよい。しかし新聞記事では外来語や擬音語はカタカナで書くことに決まっている。「ピアノをポロポロと弾いた」「ブランコがギーコ、ギーコと音を立てた」でなければならない。(ただし「ぶらんこ」はひらがなで書くこともある。)
漢字の使用にもこのようなルールがある。それは、新聞記事では「仏恥義理、夜露死苦」と書けない(「ぶっちぎり、よろしく」と書かねばならない)など、「当て字」が使えないということだけではない。私たちは日常生活で、例えば自分の日記や、会社での報告書など「私的」な範囲でたくさんの文字を書いていて、そこでは自分が好きなように漢字を使ったり使わなかったりしているが、そういうものではない「公的」な場面(新聞記事、テレビのテロップ、自治体の広報など)に出す文章で使える(使ってもよい)漢字というのは実は決められている。
それらの漢字は常用漢字と呼ばれる。一般に流通している国語辞典には「常用漢字外」のものにはその旨記号が添えられているはずだが、「常用漢字外」の漢字は、原則として新聞記事などでは使われない。お役所言葉でいう「国民」の全員が読み書きできる漢字と考えられている「常用漢字」は、改定されるとニュースになる。最近では2010年に改定されているので、そのニュースをご記憶の方もおられると思う。
常用漢字に規定される「漢字」には読み方(音訓)も含む。そして、この「読み方によって使えない(常用外である)漢字」というのが大変に多い。「不良」と書いて「ワル」と読むといった特殊なもののことではなく、ごくごく身近な、手書きでも日常的に書いていて、コンピューターの日本語変換でもさくっと出てくるようなものが、「実は常用外」ということがとても多いのだ。例えば、2010年まで「関わる(かかわる)」は《常用外》だった。(私のパソコンに入っているMS IMEでは今でも「関わる」は《常用外》と扱っている。2010年よりあとに購入したものだが、IMEの辞書はそれ以前のものなのだろう。)
2010年の改定の内容は、ウィキペディアに簡明に説明されているので、チラ見程度でよいので見ておいていただきたい。って書いてリンクしといても誰も見ないから貼っとくわ。
……と、今「貼る」と書いたが、それも実は国語辞典では出てこないということを、いったい日本語話者のどれほどが知っているだろう。オンライン辞書、例えばgoo辞書で「国語辞典」に指定して「貼る」と入れてみてほしい。検索結果としては「張る」しか出てこないはずだ。(以下、goo辞書の国語辞典は、「デジタル大辞泉」。)
私もこれを知ったときはびっくりした。「ポスターを張る」とあれば即座に「誤変換」と思う人が大半だろうが、実はそれは「日本語として正しい」のだ。
同様の例として(英語でいうaskの)「きく」がある。「訊く」が正しくて「聞く」が間違っているという俗説もあるが、実際には《「聞く」とも書くし「訊く」とも書く》のである(ただし現状、「訊」は常用外で人名漢字としてのみ認められているので、普通に目にする文章では「聞く」が圧倒的に多いはずだ)。一方で、「尋ねる」と「訪ねる」は別の語という扱いである。それだって、元々の言葉としてはひとつだったが、時代とともに「たずねる」の「質問する」と「訪問する」の2つの《意味》が完全に別々になったために、漢字は使い分けようっていうことで別の語になったのかもしれないと思うが。つまり、語源の段階から別々というもの(例: 「私」と「渡し」)ではなく。
最近、「映画を見る」と書かずに「映画を観る」と書くのが《正しい》かのように述べる文章を見たが、それもどっちでもいいし、そもそも「観る」は「常用外」である。
「えー、どうして?」、「そういう決まりって、誰が決めるんですか!」と思うかもしれない。だが、好むと好まざるとに関わらず、日本語圏というのはこういう約束のもとに公共の場での言論活動が保証されている場で、それは受け容れるよりない事実である。
また、常用漢字に限らず、その文書・出版物の表記基準というのもある。例えば「いろいろな」は常用漢字としては「色々な」と書いてよいのだが、表記としては「色々な」は使わない、といったものだ。印刷された文章を読んでるだけの人が認識すらしているかどうか私は疑問に思うが、認識していない方も、編集の現場では「いろいろな」、「さまざまな」、「口々に」、「人びと」、「子ども」などの用語が、「この案件ではこの表記を使ってください」という一覧表になっているというイメージでだいたい把握していただけるのではないかと思う。
かくして、常用漢字というのは案外と厄介なものである。好きか嫌いかで言えば、個人的には嫌いだ。そんな制約はなくなってしまえと思うくらいだ。文章を書くのが紙とペンと手と私の頭ではなく、モニターとキーボードと指とコンピューター内臓の辞書(日本語変換)と私の頭になった時代、書く立場ではなおのこと、不要な制約である。だが、そうしたら今度は(少なくとも可能性としては)「読めない」文章が巷にあふれかえることになる。「読めない」ものは「人々がそれぞれ好き勝手に読む」だろう。そうなれば言語は根本からその機能を投げ出すことになる。そのために設定されているのが表記基準である。
そして、それらの表記基準のベースとなっているのが「常用漢字」である。上でも少し述べたとおり、世の中には、常用漢字など無視して書いててそのままでよいという文章(文学作品など)と、常用漢字に完全に従わなければならない文章(新聞記事など)がある。実際には、両者は完全に「あれかこれか」で分かれているというより2つの極で、どの文章表現についても「表記の自由はどの程度許容され、どの程度制限されているか」という程度の問題があると思う。(なお、学術論文は、基本的理念としては前者だが、現実に何らかの出版物に含まれるときには後者の要素が強くなるし、学術論文であれ一般的な文章であれ、たいがいの書き手は自分なりの「表記基準」を持っている。例えば「時間」と書いたら「じかん」と読むに決まっていて、「とき」と読ませたければルビをふる。)
ここで国語辞典で「ゆるす」をご確認いただきたい。「ご確認いただきたい」と書いて確認してくれる人がいるとは私は思っていないので、例として、先ほどと同じくgoo辞書の画面を参照しておこう。
つまり、「許す」と書こうが「赦す」と書こうが、日本語としては同じなのである。違和感をおぼえる人も多いだろうが、そういうことになっているのだ。
「赦す」が新聞記事で「許す」と書かれているのがおかしく見えるのは、ある人の自分の中での「表記基準」と矛盾するような「常用漢字」のケースと言えるだろう。そして、そういうことが生じるのは珍しいことではない。
実際にあるかどうかは別として、思考実験的に、上で見た例から、「ポスターを貼る」と書いた原稿が(「貼る」は使わないという表記基準のもとで)「ポスターを張る」と印字される場合を想定してみよう。このとき、「貼る」の表記にこだわるという選択肢はありえない。担当者と交渉しても「張る」でなければならないという一点張り(no pun intended)で、せめてもの妥協点として漢字を使わず「はる」で行こうと言っても渋い顔をされる。そんなとき、書き手としては、「張る」を使うという妥協ができないのなら、表現を変えることで対応することになるだろう。つまり、「はる(張るであれ貼るであれ)」という日本語を使わず、その内容を言おうと考える。そして原稿を「ポスターを掲示する」と書き直す。(誰も気づかんかもしれんことですが、こういうところでエネルギー使うんですよ。)
「貼る」ではなく「張る」とするという表記基準がある場合、「ポスターを貼る」と書いてある原稿を「ポスターを張る」と直すのもプロの仕事だし、「ポスターを張る」と直されるのがいやなら「ポスターを掲示する」と言いかえるのもプロの仕事だ。どちらがいいとか悪いとかではない。(実際に、連休で道路が混雑しているときに「道路が混んでいる」と書いたら、表記基準に従って「道路が込んでいる」と直されたので、「道路が混雑している」と書き直した、というような経験は、文章を書くという仕事をしていれば必ずあるはずだ。書き直さずに「混んでいる」のまま通せる立場もあるが、それは本質的に特権的な立場であると言ってよい。)
しかし現実には、一般の人からは「ポスターを『張る』なんて書かないよ、テントじゃあるまいし。この印刷物は間違っているな」という反応がとても多く出るだろうし、編集者だって違和感を覚える人が多いだろう。そういうところから表記基準が変わってくるということはあるし、常用漢字について検討する機関(かつては国語審議会、2001年の省庁再編後は文化審議会国語分科会)もそういう実勢を見て常用漢字表の改定を行なっている。「ポスターを貼る」の「貼」の字は、2010年の改定で追加された(音読みは「チョウ」)。
http://joyokanji.info/list.html?ta
しかし、「赦す」の表記は、現時点でも常用漢字一覧に入っていないのだ。「赦」の文字は一覧にあるが、音読みのみである(つまり「ゆるす」という訓読みは、使わないことになっている)。常用漢字チェッカーという便利なサイトがあるのでそこで確認してみよう。
というわけで、シノドス掲載の1月の記事について、私は下記のようなブコメを残しているのである。
つ「表記基準」。新聞社ごとに使える漢字・使えない漢字の指定は異なるが、「ゆるす」は「許す」のみで「赦す」は使えないことが多い。そんなことよりスンニ派の過激派の活動に関する解説で、なぜシーア派の図像を? / “「許す」と「赦す」 ―…” http://t.co/hE4PC8OFG4
— nofrills (@nofrills) January 15, 2015
みんな(=大勢)が「今まで知らなかった!」と感動に打ち震えているところで「表記基準ですよ」と編集実務の話をふってみたところで、反応はない。むなしい。 http://t.co/ZtZUyYIvUL
— nofrills (@nofrills) January 15, 2015
「許す」などと書いているのは《誤訳》であると断じるこの記事がこんなに肯定的な反響を呼んでいるのはなぜかと考えたとき、キリスト教の(英語でいう)forgivenessの概念に「赦す」という漢字が与えられているのを目撃したことによる「感動」があるのではないかと思い至った。私もたぶん、「その言葉」を知らなかったころ(10代のころ)にそういう経験をしているはずだ(覚えてないけど)。ヘレン・ケラーがwaterという言葉を発見したときの喜びと同種の感動で、それ自体は尊いものである。だからといって、「表記の違い」を「誤訳」扱いしてよいことにはならない。
というか、「ゆるす」に「赦す」の字があることが知られていないんだろう。新聞では多分例外を除いては「許す」の表記になるし、日常で「赦す」の文字を見ることがない。「恩赦」と「許可」で見ればわかるだろうけれど、多分言われないと気づかないし「赦」を「ゆるす」と読むことにそもそも気づかない
— nofrills (@nofrills) January 15, 2015
関連して:
「赦し」と「許し」の違いは、わし、どこでどう習ったんだっけな。もう忘れたよ。でも常用漢字とかそういう問題で「赦し」が使えず、表記統一基準で「許し」を使うよう指示されてることはあったと思う。新聞はそれだと思うのですが、十中八九は。「被爆/被曝/被ばく」の表記だってその問題。
— nofrills (@nofrills) January 15, 2015
※細かいことは忘れたけど、「キリスト教」の文脈だったことは確か。私の場合、「赦し」の表記は知っているのだけど、「赦し」を「許し」と書くお約束を知らないわけではないという点を強調するために(それを強調する必要が生じたことがあった)、あえて「許し」と表記していた時期もあった。
漢字表記をめぐって「誤訳だ、誤記だ、うっきー」というのの多くは表記基準(常用漢字)の問題なんですよね。編集の裏方(用語・表記統一の類)すると実感できるかもしれないけどこれが大変な問題で。手元にある共同通信の記者ハンドブックでは「ゆるす」は「許す」のみ掲載(ので「赦す」は使えない)
— nofrills (@nofrills) January 15, 2015
だから、「翻訳」の問題ではなく「表記」の問題なんです。「使える漢字と使えない漢字」があるんです。特に新聞記事では厳密で原稿の「赦す」を「使えない漢字」として「許す」に修正するのが仕事という人もいるんです。たとえ当人がpardonは「赦し」だと知っていても直さなければならないんです
— nofrills (@nofrills) January 15, 2015
あれで「相互理解」語られるのはちょっとまずいですよ。表記基準を前提にしていない言い分で「誤訳」断定されるのはとてもよくない。新聞記者さんもがんばってください。
— nofrills (@nofrills) January 15, 2015
……という話題は1月15日にどーっと書いている。
http://twilog.org/nofrills/date-150115/asc
その数日後、「赦す」が常用外で「許す」で代替されている例を印刷物で見つけた。
南アフリカの真実和解委員会におけるforgivenessを「許す(こと)」という漢字で表記している例を、ついに、ティーンエイジャー向けのネルソン・マンデラの評伝で見つけた。
— nofrills (@nofrills) January 19, 2015
ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉ネルソン・マンデラ: アパルトヘイトを終焉させた英雄 (ちくま評伝シリーズ“ポルトレ”) 筑摩書房編集部 筑摩書房 2014-09-25 by G-Tools |
この本である。 http://t.co/IZLw3gcl89
ネルソン・マンデラ: アパルトヘイトを終焉させた英雄 (ちくま評伝シリーズ“ポルトレ”) (この本、とてもよい。ティーンエイジャー向けだが、40代でも50代でもマンデラの名前しか知らない人は読むといいと思う)
— nofrills (@nofrills) January 19, 2015
前掲書、p. 157より。「被害者が加害者に『許します』と申しわたす感動的なシーンもあった一方で……」(添付写真の一番左の行を参照) pic.twitter.com/UHSHiHisSQ
— nofrills (@nofrills) January 19, 2015
Ibid., p. 160より。「『許す。しかし、忘れない』。真実和解委員会の精神をひとことでいえばそうなるでしょう。……」(添付写真の一番右の行を参照) pic.twitter.com/odr1oCHjqp
— nofrills (@nofrills) January 19, 2015
比較例。一般向けの読み物ではなく、アカデミックな本では「赦し」の表記がとられている。(阿部利洋『紛争後社会と向き合う』のpp. 232-233より) pic.twitter.com/QfxqJ5QwkR
— nofrills (@nofrills) January 19, 2015
紛争後社会と向き合う―南アフリカ真実和解委員会 阿部 利洋 京都大学学術出版会 2007-12 by G-Tools |
※この記事は
2015年02月21日
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