「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2015年02月18日

どんなものにも人は慣れ、45人が焼き殺されても、もはや大きな記事になることもない。

なぜ大きな記事になっていないのか、私は知らない。なぜ大きな記事になっていないのかについて、「冷静」で「科学的」な検証もできるだろう。しかしそんなことは誰かそのリソースがある人が仕事でやってくれ。私は知らない。

イラク西部、アンバル県(アンバール州とも表記されうる)は、「イスラム国」を自称する勢力(ネットスラングで「イスイス団」、本稿では「ISIS」と表記)の前駆組織が11年前に足がかりを築いた地であり(面積はやたらと広いのだが砂漠地帯なので都市は限られている)、2014年以降のISISは、この県の拠点都市、ファルージャやラマディを超えて伸張したことで、現在のような状況になっている。イラクは基本的に「シーア派(政府)対スンニ派」という構造になってしまっているので、「政府側勢力が反政府勢力を叩いている」のか「シーア派がスンニ派を叩いている」のかも好きなように語れてしまう状況で、恨みや復讐心といったものも巻き込んで憎悪と怒りは増幅されている。またISISは「歯向かう者は皆殺し」にしているので、部族単位で物事が決まる社会で、ISISが制した土地でISISに反対した部族は「皆殺し」の目にあうという(イスラム教徒であることや宗派は関係ないようだ)。

そんなアンバル県でもまだイラク政府側が握っている町がいくつかはあるのだが、その「最後の砦」のひとつが先週末、ISISに落ちた。




そして陥落したこの町から、「45人が焼き殺された」との報告があった。しかし、それが大きな記事になることもない。そう嘆いているのは私ではない。




"Their omnipresent brutality desensitised us to the point where it's not headline news anymore." ISISの残虐性にすら、私たちは慣れてしまった。刺激は強烈であればあるほど、簡単に慣れる。例えば陸上選手のウサイン・ボルトの足が早いといって、一度は驚嘆するが、二度目は最初っから期待して見ている。

ともあれ、何があったか。












21人の一斉斬首の映像で「リビアのISIS」がその存在を宣言した直後に、イラクからはこのような、「45人同時焼殺」の報告があり、それは誰もコンファームできなくて、なおかつまだ殺戮は続いている。そして、記事にはならない。

イラクに関しては、自分でもぞっとするが、それが「当たり前」になってしまっている。これまでISISに制圧されたと報じられた都市や町、村で、どのくらいの殺戮が行なわれたか、たぶん誰も把握していないだろう。

湯川遥菜さん、続いて後藤健二さんが殺されたことが公表されたとき、日本語圏はもとより、世界的に非難の声が上がったが、シリアからは「正直、外国人が殺されたときだけ外国が騒ぐのを見せられても」というような反応が、そんなに直接的な言い方はしていないにせよ、Twitterには流れてきた。

2014年夏にアメリカ人ジャーナリスト2人が殺されたときも、「既にISISはシリア人ジャーナリストを殺している(のだが、国際メディアははなも引っ掛けない)」という声があった(私はRTしたりTTしたりと、自分のできることはしたが、そんなのは自分で自分に言い訳できるようにしたに過ぎず、別に何にもならない)。

そしてヨルダン空軍のカサスベさんが「檻の中に入れられ、生きたまま焼き殺される」というめちゃくちゃな光景を記録し、凝った仕上げをほどこされたプロパガンダ映像が出たとき、シリアのダマスカスのあたりでは、アサド政権が自国民の上に樽爆弾など攻撃を加えており、なおかつ「樽爆弾なんか使ってませんよ」とBBCのジェレミー・ボーエンのインタビューに答えていたのだが、カサスベさん惨殺映像が注目され、アサドのインタビューが注目される一方で、爆弾を落とされる人々のことはまるで注目されずにいた。








そんな中で、「オレンジ色のつなぎを着て檻の中に入ってれば注目してくれるんでしょうか。ただし私たちを殺そうとしているのはISISではなくアサド政権ですが」とばかりに、ダマスカス近郊のゴウタの町の建物の破壊のあとの瓦礫の中からの抗議行動の写真が流れてきたりもした。英デイリー・テレグラフが記事にしている


Children carry banners inside a cage during a protest, against forces loyal to Syria's President Bashar al-Assad, in Douma Eastern Al-Ghouta, near Damascus, February 15, 2015. The protest, which made children wear orange suits depicting victims of the Islamic State, calls to compare forces loyal to Syria's president Bashar al-Assad to Islamic State forces, and to draw attention to residents living under seige and dieing from strikes by forces loyal to Syria's president Bashar Al-Assad, activists said. REUTERS/ Bassam Khabieh (SYRIA - Tags: POLITICS CIVIL UNREST CONFLICT TPX IMAGES OF THE DAY)

https://ca.finance.yahoo.com/photos/top-news-photos-1370239005-slideshow/children-carry-banners-inside-cage-during-protest-against-photo-134620095.html

※この記事は

2015年02月18日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 19:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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