「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年01月29日

ISISはヨルダン人パイロットと後藤さんと何を天秤にかけているのか(サジダ・リシャウィとは誰なのか)

28日23時(日本時間)、つまり予告されていた時刻が迫っても、それが過ぎても、1件の誤報(関係のないビデオを関係するビデオと扱っていた)を除いては特に何もなかった。「イスラム国」を自称する勢力(ネットスラングで「イスイス団」、本稿では「ISIS」と表記)の動きは、偽アカウントはずいぶんいろいろやってたようだが、マトモな筋からは全然伝わってこなかった。(Twitterでにわかに話を追い始め、「ISISメンバーのアカウント」を直接見ている人、悪いことは言わないからやめなさい。うちらだって20年前に「あーいえばじょーゆー」っておもしろがってたんだからおもしろがるのはわかるけど、簡単に取り込まれるよ。私は警告したからね。あとはほんとに自己責任。)

そんな日だったので、久しぶりにアルジャジーラ・イングリッシュをオンラインで見ていた。私がチェックしていた17時から午前3時までの間に、輪番制のキャスターが3人、前は女性がキャスターだったのに、今は(たまたまかもしれないが)全員男性だった(3人目はおなじみ、サンタマリアさん)。定時ニュースの後半にやる「今日の特集」的なものが興味深かった。デトロイトの帽子店だとか、東ドイツのシュタージ博物館だとか。。。そんなことはどうでもいい。

27日の夜遅くに出たメッセージを最初に聞いたときに、私は面食らった。ぱっと聞いたところ、理屈が通っていなかったので。つまり、後藤さんが読み上げている(読み上げさせられている)その文面では、後藤さんは「私と、リシャウィの交換だ」と言い、「これはシンプルなことだ」と強調していた。それを聞いたら「後藤さんとリシャウィの捕虜・囚人交換が成立すれば解決する」と判断するのが普通だ。

しかしその同じメッセージで後藤さんは、ほんの何秒かのうちに、「第三の男」に言及していた(言及させられていた)。ムーアズ・カサスベさん。2014年のクリスマス、英語圏が休暇モードになっていたときに入ってきた「ISISが有志連合軍の戦闘機を撃墜した」(実際には「ISISが撃墜した」のではなく、「たまたまISISの支配域の上空で機体が故障して炎上・墜落し、パイロットは脱出した」のだが)というニュースの当事者だ。そのニュースについては、下記「まとめ」の1ページ目に書いてある。
http://matome.naver.jp/odai/2142237068424407801

つまり、27日の音声メッセージで、後藤さんは、「私とリシャウィを交換しろ」と言い、「時間的猶予は24時間だ」と言い、「要求に応じないと私より先にカサスベが死ぬことになる」と述べていた。

そして「予告された時刻」を前に日本政府の動きがばたばたしてメディアが「誤報」(勇み足)を連発し、そのドタバタが終わったころには、話はいつの間にか、後藤さんというよりカサスベさんが中心になっていた。アルジャジーラ・イングリッシュの報道もそうだ。

英語圏では当初、後藤さんの読み上げたメッセージを、「後藤さんとカサスベさん」を「リシャウィ死刑囚」と交換するという意味に取った報道がちょこちょこ出ていた(見出しやツイートを見ただけだが)。私もそれに釣られた気はある。

しかし、メッセージでは明確に「後藤さん」と「リシャウィ」の交換だと言っている。実際、日本の報道機関のいくつか(共同通信など)はこの箇所 (me and her) を「1対1」と意訳していた。そうだとすると、「ヨルダン人パイロット」は……?








そのことを念押しするISISの発言があると、SITEのリタ・カッツさんが報告している。



そして、彼の生存確認をヨルダン政府はすることができていない。交渉は部族の有力者などを通じて何人もがリレーして行なっていると思われるが(それが普通)……




Jordan said on Wednesday it had received no assurance that one of its pilots captured by Islamic State insurgents was safe and that it would go ahead with a proposed prisoner swap only if he was freed.

The fate of air force pilot Muath al-Kasaesbeh was thought to be tied to that of Japanese hostage Kenji Goto, a veteran war reporter who is also being held by the insurgent group.

http://in.reuters.com/article/2015/01/28/mideast-crisis-japan-hostage-idINKBN0L11VZ20150128

ロイターのこの記事の記述、後藤さんが "also" の扱いになっているということに私は何とも言えないものを感じている。

なお、ここに至るまでに、ISISの側からヨルダン政府に対する揺さぶりがある(プレッシャーをかけようとしている)のではないかということは何度もいわれていた。「リシャウィ死刑囚は既にISISの支配域に入っている」とかいった《うわさ》がばら撒かれていたし(ただし、自然発生するとはちょっと思えないが、誰かのいたずらかもしれない)。

というわけで、「ボールは現在はISISのコートにある」状態(ヨルダン政府が「カサスベさんが生きていると言う証拠を見せろ」と要求している)。交渉はまだ続くだろう。ただし、あまり長くは続かないかもしれない。

ちなみに、ヨルダン政府に対してISISが望んでいることは、NYTのこの記事を読めばわかると思う。





なお、ヨルダンについては……

手っ取り早く言えば、ザルカウィ派というのは元々アルカイダとは別の発祥で、組織が始まった当時はアルカイダの一部として行動していたが、思想はビン・ラディンやザワヒリとはかなり違っていたらしい。何より「国境線(サイクス・ピコ・ライン)の解消」をしようとしていて、「イラク戦争」の間は「イラクとヨルダンの国境」を解消しようとしていた。そのころのことを知っている生き残りがラシャウィ死刑囚、ということになろう。

ラシャウィ死刑囚のことは、詳しく調べている人がいる。










この「ミュリエル・デガク」という人が……知らなかった、こんな人がいたなんて。




なお、最近のISISの伸張に関しては、アーロンの文章がタダで読める。ネットってすごいなあ。「イスイス団メンバーのアカウント」なんかをあさってるヒマに、こういうのを読んだほうがよほど役に立ちます。(っていうと「西洋がー」みたいに強硬に反対してくる人は、警戒していいですよ。)



※この記事は

2015年01月29日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 08:35 | TrackBack(1) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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「サジダ・リシャウィ」を覚えていますか? 10年前に、彼女らが標的とした人々のことは?
Excerpt: 「リシャウィ」という名前を、何の苦もなく思い出したのが、自分でも不思議だ。 "I'm a survivor. I'm surviving every day" 10年前、200..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2015-11-10 06:01

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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