「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年01月22日

というわけで、例の「ISISのビデオ」については既に別途書いています。少しだけ。

というわけで、話の順番が逆になっちゃったのだが、1月20日に「イスラム国」を自称する武装集団(以下、「ISIS」とする)の、例の「英国のアクセントで話す黒装束の男」(通称「ジハディ・ジョン」)が、例のオレンジ色の上っ張りを着せた日本人2人カメラの前に連れてきてしゃべっているビデオが出された件については、初期段階の断片的な情報は既に「NAVERまとめ」を使って記録している。彼らのプロパガンダに加担しないよう、「恐怖のばらまき」という彼らの目的に貢献しないようにするため、センセーショナルな扱いをしたり、「速報」的なことをしたりすることは避けているので、とても地味だ。

「日本政府は2億ドルを出せ。さもなくば…」と、「イスラム国」を自称する集団がナイフを突きつけてきた。
http://matome.naver.jp/odai/2142173583924475101


また、英語圏では、昨年8月(まだ今のように、報道が抑制的でなかったころ)に「アレッポのあたりで日本人が拘束された」というビデオがISISのプロパガンダのチャンネルにアップされたことが話題になった結果、「拘束された日本人はどのような人なのか」ということが英語でたくさん書かれて、湯川さんに関しては「ちょっと変わった人だ」という話がかなり広範囲に知られているのだが、後藤健二さんについては(少なくとも英語圏では)拘束されていることが今はじめて知らされたという段階で、彼がジャーナリストであることも説明しなければならない状態だった(湯川さんと同じような人だと思い込まれているらしいケースもあった)。下記はシリアの「民主化」の側で発言を続けてきたシリア人のアカウントに意見した私の投稿。




というわけで、後藤さんについては、英語版ウィキペディアに記事がなかったので記事を書いてきた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Kenji_Goto

ウィキペディアで新規に記事を立てたのは10年以上ぶりで(しかも英語版では初めてだった)、やり方がわからず右往左往して時間がかかったが、新規記事投稿は今はウィザードの画面からやるようになっているらしい。(大昔、ウィキペディアというものが最初に登場したころに、欧州の政治家について、仕事で作成した基本的バイオグラフィーのうち使わなかったものを寄付したことがある。「○○年、○○市生まれ。○○大学卒業後、弁護士として活動していたが、○○年に○○党から○○議会選挙に立候補し当選。以降党要職を歴任し……」といった3行程度の簡単な略歴で、仕事で作成したものの最終的に納品前に削ってしまい、原稿料も発生せず……という中途半端な存在になっていたテクストを、投稿フォームから単に掲示板に投稿するように貼り付けていくつかマークアップを加えただけだった。今ではその記事は大きく成長している。)

記事の原型は他の日本人ジャーナリストで英語版のページがある人のものを使い、記述そのものは後藤健二さんの日本語版ウィキペディアと、ご自身の会社のサイトにあるプロフィールに基づいて英語で書いた。(厳密な「翻訳」ではない。)

記事の形式を整えたり、リンクを張ったりする作業(最大限までリンクしておいたが、proofreadでかなり削られてしまった。それはそれでよい)でかなりの時間がかかり、最後はぐったりしてしまった。

以上、ブログにも書いておかないと、と思ったので一言だけ。

なお、ウィキペディアに記事立てしたのは、下記のツイートへの反響がとても大きかったからである。私のような個人のアカウントが何か書いていてもほとんど意味はない(ただ流れていくだけ)なので、ウィキペディアに書こうと思った。




湯川さん、後藤さんのご無事でのご帰国を切に、切に願っている。

※この記事は

2015年01月22日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 02:30 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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