「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2014年12月31日

他者の苦痛を、わがこととせず他者の苦痛として、ただ見ること。一人称単数を主語にして。




ふと気づくと、スーザン・ソンタグ亡くなってから、10年が経過していた。ソンタグは、デジカメ、ソーシャルメディア、スマフォといった写真の氾濫の時代をほとんど知らずに死んでしまったのだった。

他者の苦痛へのまなざし他者の苦痛へのまなざし
スーザン ソンタグ Susan Sontag

写真論 反解釈 (ちくま学芸文庫) 同じ時のなかで

by G-Tools


このブログで何度か参照しているこの本は、「悲惨(他者の苦痛)」の光景をとらえた写真について論じたもので、環境の変化とともに古びつつも、とてもベーシックな論考であり続けている。町にいる人のほとんどがカメラを持ち、多くがソーシャルネットをやっていて、情報は古典的なマスメディア(新聞、雑誌、テレビなど)を通さなくても「マス」へと伝わっていくのが当たり前という環境で、もはや写真は「ことば」と同じように氾濫している。

それについて、ソンタグが目撃し、分析し、語れている時間があったならば、どんなによかっただろう。


だがそれはかなわぬことだ。

2014年現在、私の「まなざし」の先では、誰かが旅先で入ったカフェのラテアート、誰かの庭のきれいな花、誰かが食べようとしているおいしそうなケーキ、誰かに愛され慈しまれて笑っている子供、誰かの愛らしい猫、南極のペンギン……そういったものが、各種報道写真、「経済ニュース」のアイキャッチの写真(例えば「金融街でチャートを表示するモニターの前で携帯電話で話をする人」のような)や、スポーツニュースの写真などと一緒にランダムに流れてきては表示されている。それらの中には爆弾で破壊された建物や、黒焦げになった車のようなイメージもある。

報道機関だけではない。今年(2014年)、ニュースのメインプレイヤーとしていきなり支配的になったISISは、ソーシャルネットに展開した情報伝達網を通じて、非常に洗練されたプロパガンダを行なった(私がTwitter.comの画面を一時期見るのをやめたきっかけは、ISISのプロパガンダで垂れ流される「生首」の写真だった)。

そのとき、私たちの「まなざし」はどこに向けられているのか。

いや、一人称複数で語るのは、やめよう。

私の「まなざし」は、どこに向けられているのか。

「まなざし」がとらえるのは視覚情報だけではない。文字情報もまた同じで、「まなざし」がとらえるものである。特にTwitterではそうだ。Twitterでは自分が選んだような情報しか表示されない。私が普通にTwitter.comを見ているだけでは、アメリカ南部の宗教熱心な人たちによる「神を讃えよ!」系の言葉は見かけない。EMOのバンドのファンの言葉も見かけない。ここでは「私が何を見ているか、私が何を見ようとしているか」によって、私の目の前に流れてくる言葉と情報が規定されている。

人は、自分には見えていない情報は存在しないかのように行動するのが常だが、実際にはもう全然そんなことはない。私の画面に現れないからといって、「神を讃えよ!」系の言葉がないというわけではない。

そのことを知っているかどうか。意識しているかどうか。意識すべきときに意識するかどうか。

これは地獄だと言うことは、もちろん、人々をその地獄から救い出し、地獄の劫火を和らげる方法を示すことではない。それでもなお、われわれが他の人々とともに住むこの世界に、人間の悪がどれほどの苦しみを引き起こしているかを意識し、その意識を拡大させられることは、それ自体よいことである。悪の存在に絶えず驚き、人間が他の人間にたいして陰惨な残虐行為をどこまで犯しかねないかという証拠を前にするたびに、幻滅を感じる(あるいは信じようとしない)人間は、道徳的・心理的に成人とは言えない。

或る年齢を超えた人間は誰しもこのような無垢、このような皮相的態度、これほどの無知、あるいは健忘の状態でいる権利を有しない。

――スーザン・ソンタグ(北條文緒訳)『他者の苦痛へのまなざし』p. 114


先日、こんな英語圏の記事を(全部ではないが)日本語化した。

ケニア東部、バス襲撃事件から生還した人のあまりに生々しい体験
http://matome.naver.jp/odai/2141788209245824501


これについて、このようなツイートをいただいた。




そう。私自身「知った上で何ができるのか」と思っている(そして「何もできない」と思っている。ましてや「当事者になりかわる」ことなど、絶対にできない)。

けれども、人は「知った」ら、知らなかったときと同じようには行動できない。見た者、聞いた者、知った者としての「責任」が生じるからだ。

ケニアでのバス襲撃事件のあのすさまじい生還者の話を聞いて(読んで)できることは、確実にある。それは、ああいうことをする連中(バス襲撃事件の場合はアッシャバブ)をサポートしないこと。シンパにならないこと。

ああいうのをサポートするのが「反植民地主義的で理性的」であるかのような(反知性主義むき出しの)言説に乗らないこと。そのお先棒を担がないこと。

「〜しないこと」によって、できることはたくさんあるはずなのだ、残念ながら。

自分が「安全なところ」にいることを、ただそれだけで喜ぶのは幼稚だが(「よかった、日本はこんなふうじゃなくて」)、それを引け目に思う必要もない。

映像が提示するものについてわれわれが何もなし得ないという挫折感は、そのような映像を眺めることの不当、あるいはそのような映像が流される仕方――それらが皮膚軟化薬、鎮痛剤、SUVの広告にはさまれるかたちで流れることもある――の不当にたいする非難へと転化されるかもしれない。映像が提示するものを何とかできる力がわれわれにあったなら、われわれはこのような問題にこれほどこだわらないだろう。

映像は、距離を置いた地点から苦しみを眺める方法であるという理由で非難を受けてきた。まるでそれ以外に眺める方法があるかのように。しかし近距離で、映像の介入なしに苦しみを眺めることも、眺めるという点では同じである。

残虐の映像にたいする非難の或るものは、視覚そのものの性質と切り離せない。視覚は努力をともなわない。視覚は空間的距離を必要とし、視覚は遮断することができる。……

……

一歩退いて考えることは何ら間違っていない。何人かの賢者のことばをパラフレーズするならば、「誰かを殴るという行為はその行為について考えることと両立しない」。

――スーザン・ソンタグ(北條文緒訳)『他者の苦痛へのまなざし』pp. 117-119


いま、「攻撃」、「空爆」、「軍事作戦」という言葉で語られるもの……積極的に「戦争」と呼ぼうとすらしない光景。それはどこにあり、どこにないのか。どこでどの程度広がっているのか。






















みなさま、よいお年を。

※この記事は

2014年12月31日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:48 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼