kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2014年12月22日

バングラデシュでは、子供を含む人々が素手でタンカーから流出した重油の除去に当たっている

今月に入って、英語圏のメディアでは、10年前の津波(インドネシア沖)についての記事がけっこう多く出ていて、Twitterでもかなり頻繁に見出しや写真がツイートされてきている。多くは「当時の報道を振り返り、被災地の現在を訪ねる」というもので、当時取材した記者が再訪するものがその中でも多い。

それらの記事に意味がないというわけではない。むしろ、とても有意義なもので、何本かは読んでいるし、読めていないものの中にも時間さえあればしっかり読みたかったものもある。

しかし、それら「10年前のこと」についての記事が流れてくる頻度に比べて、現在進行中のこの深刻な災害について流れてくる頻度はとても少ない。

2014 Sundarbans oil spill
http://en.wikipedia.org/wiki/2014_Sundarbans_oil_spill


12月9日、バングラデシュの世界遺産指定地域、Sundarbansで発生したタンカー事故による重油流出。マングローブの森や希少なイルカ類が危機にさらされている。報道では現地にはクリーンアップのための機械類もなく、子供を含む人々が素手で重油の除去に当たっているという。




BBC(のアカウントのひとつ)によるこのツイートにある写真は、12歳の子供の脚だそうだ。




バングラデシュでは、河川での船舶の転覆、衝突、沈没といった事故は多発している、と昨年(だったか)、何百人という単位の人々が犠牲になったフェリーの事故(日本語圏でどのくらい報道されたかは私は知らないが、英語圏では多少は報道された。でも韓国のフェリー事故の何十分の一かだったと思う)のときの解説で読んだ。だからろくに報道されないのかもしれない。報道したところで何が起きるわけでもないしどこにも影響がないというので「国際メディア」には出ないのかもしれない。どこででもある「交通事故」の扱いなのかもしれない。

それにしても。




すでに1件記事があるし、検索結果の2ページ目にも1件記事が出ているが(下記)、いずれも日本の報道機関・通信社のものではない。日本の報道機関がバングラデシュについて書いているのは、タレントの親の話、企業の話…など。





英語圏ではこんな感じで記事が出てはいる。(白黒にしたのは、写真が多いため。)



だが、少ないと思う。

※この記事は

2014年12月22日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:30 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼