「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

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2014年12月17日

「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。

11年前、2003年の前半からしばらくの間、うんざりするほど見た単語のひとつが、moralです。「合法である」かどうかの議論が(当時の状況では)出尽くしたころに「法」とは別の基準として出てきたのが「道徳、モラル」でした。


Moralは宗教的な語です。BBCを見ただけでも、"Blair puts 'moral' case for war" とか、 "Archbishops doubt morality of Iraq war" など、2003年2月の国連安保理前後に何本もの「モラル」に関する記事があります。これらを見ると、控えめに言っても、「英国ではキリスト教の見地から、大いに疑問と言われていた」ことは確認できます(が、宗教家ではない政治家のブレアが「モラル面で問題なし」と言い張っていたのです。なお、私はアメリカのことは知りません)。

イラク戦争後に明らかになった米軍内の(キリスト教でいう)「正戦 just war」論(の利用)は、こんな議論が終わってから何年もして判明したのですが、ではそれについて、「キリスト教徒」(という漠然とした集合体)は批判・非難しないのでしょうか。いや、私個人はキリスト教徒によるあれらの「正戦」論への批判を読んだし聞いたことはあります。日本語でも英語でも。反戦デモでの英国のフレンド会の方の言葉だったと思いますが、心を揺さぶられた映像も記憶しています。しかしそれは「私個人は」です。例えば、普通に毎日夜のニュースを見ているだけという人は、そういうのは聞いた覚えがないといいます。

「私個人は聞いた・読んだことがある」というのは、いわゆる「イスラム過激派のテロ」に対する「イスラム教徒」の批判でも同じことです。私は聞いたこと、読んだことがあります。でも、普通に毎日夜のニュースを見ているだけという人は、聞いた覚えがないというかもしれません。

(この点について、あまり具体的には書きません。まさにそのことをめぐって私を脅してきたような立場の人たちにはおもしろくないでしょうし、私もここでは「自粛する自由」を主張します。私は私の友人や知人、話をしたことがある人々を危険にさらしたくはありません。)

実際には彼らは「非難」している。しかし人々はいうのです。口々に繰り返し繰り返し、「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」と。Twitter上の日本語圏でも「なぜイスラム教徒はあれを徹底批判しないのか」といった「つぶやき」(←この日本語、しっくりこない)は見ます。

していますよ。あなたが見ていないだけで。









この人々は、本当に、武装勢力に脅迫されながら、「イスラム過激派のテロを非難」しています。








ここには具体例は示しませんが(宣伝に加担したくないので)、「アルカイダのイデオローグ」とされるヨルダンの宗教指導者も、ISISの残虐極まりない行為は批判しており、人質として拘束されていた英国人や米国人の支援活動者は解放すべきと明確に発言していました。

それでも「なぜイスラム教徒はイスラム過激派を非難しないのか、放置しているのか」という声は、(あまりよくない言葉を使わせてください)しつこいんです。本当に、しつこいんです。

あまりにしつこいので、「嘘も100回言えば」的な繰り返しの効果で、本当に「イスラム教徒は過激派のテロを批判していない」と思うように人々を誘導したいのではないかと思えてくるほどです。

そういう中で書かれた文章があります。




ドイツのWiredにコラムニストとして書いているHakan Tanriverdiさんがツイートしているのは、The AtlanticからWashingtop Postを経てVox.comという新興オンライン・メディアに移ったMax Fisherさんの文章です。Fisherさんはアメリカ人で、中東・北アフリカに詳しいジャーナリストですが、アジアも専門としています(中国、日本)。複数言語話者です。

記事が書かれたのは、オーストラリアのシドニーで、武装した男が「イスラム教の旗」(当初、バカな現地メディアが「ISISの旗」と誤報して大騒ぎしました)を持って都心部のカフェに人質をとって立てこもるという事件(最終的には犯人を含め3人死亡)を起こしたばかりでまだ解決していないというタイミングです。バカなメディアが「ISISの旗」を連呼したあとのことで、ソーシャルメディアでは「なぜイスラム教徒はこういう過激派の行動を非難しないのか」的な声がいっぱいありました。

そればかりか、それを上回るヘイトスピーチもありました。つまり「諸悪の根源はクルアーンだ」という、いつぞや世界を騒がせた「クルアーンなど燃やしてしまえ」というキリスト教(プロテスタント)の、自分で勝手に目覚めて自分で勝手に教会やってる人が言っているような主張。少し脇道にそれますが、そういうのは、ふつうにゴロゴロしています。下記画像、英デイリー・テレグラフの見出しフィードのツイートにつけられたリプライをごらんください。(こういう反応をするのは、「欧米」の極右・排外主義者やキリスト教根本主義の人たちだけでなく、エジプトのムバラク支持者でコプト教徒を名乗っているアカウントやシリアのアサド政権支持者で「非宗教的」を看板にしているアカウントなど、多数あります。)




Vox.comで今回も優れた文章を書いているマックス・フィッシャーさんも、そういう「ネットの反応」をたくさん見ていると思います。それはもううんざりするほどに。

Stop asking Muslims to condemn terrorism. It's bigoted and Islamophobic.
Updated by Max Fisher on December 15, 2014, 1:30 p.m. ET
http://www.vox.com/2014/12/15/7394223/muslims-condemn-terrorism-sydney


フィッシャーさんは、「イスラム教徒が実行者である暴力事態に際しては、この世界のすべてのイスラム教徒がひとりひとり通過せねばならない儀礼がある。特に西洋諸国に住んでいる場合は絶対にやらないといけない」と書き始めます。「現在進行中のシドニーの立てこもり事件に際しても同じことが起きている」

シドニーのカフェの立てこもりを起こしたのはイスラム教徒で「過激派」の考えに染まった人でしたが、ぶっちゃけ、「アレな人」でした。その「アレな人」がなぜか銃を入手できていた点など、10月のオタワ(カナダ)での銃撃事件に似ていると私は思うのですが、シドニーの事件の容疑者(死亡)はオタワの事件の容疑者(死亡)よりさらに輪をかけて「アレ」で、勝手に「宗教家」を名乗っている一方で、前の妻と子供の殺害事件に関連して起訴されていたり(従犯らしい)、かつては「黒魔術で神秘的なセラピー」的なことをやっていたり(そして40件以上の性犯罪で起訴されている)と、「何でそんなのが "野放し" になってたの?」(裁判中だけど保釈されていた)といわざるを得ないような人物。要するに「失敗した胡散臭い宗教家」です(カルト教団を作っていたわけでもない)。出身はイランで、1996年にオーストラリアに亡命しましたが、シーア派の服装をして、「私はシーア派をやめた」と(シーア派への蔑称を使って)声高に宣言し、「これからはサラフィ」的な態度で奇矯な行動をとり、アルカイダ系宗教家(オーストラリアにもヒズブタハリールの支部があるなど、「過激派」の活動は確認されています)の煽動どおりにイラク戦争に参加したオーストラリア軍(や英軍)の戦死した兵士の家族に呪詛のような手紙を送りつけるという人物。彼はISISとは関係なく、関係があるとしたらただの「ワナビー」だというくらい。(ただし銃のルートが明らかになっていないので、まだ断定はできない。)豪州当局の「潜在的テロリスト監視リスト」にも載っていなかったそうです。変なカルト教団まがいのことをして、メディアの目を引くようなパフォーマンス(軍人への手紙の送りつけ)をして、さらに凶悪犯罪の容疑で法廷沙汰になって保釈中だったのに、警察はウォッチしていなかった。これはもうオーストラリアの当局のあれこれがザルすぎ。

ともあれ、フィッシャーさんは書きます。「私たちがイスラム教徒に対し、(何もやましいところがないのならこうするだろうと)期待していることは、解釈の余地がないようにはっきり書くと、イスラモフォビックでビゴテッドである」と、非常に強い言葉を使って。(フィッシャーさんは普段このような強烈な言葉をほいほいと使う書き手ではありません。)
This expectation we place on Muslims, to be absolutely clear, is Islamophobic and bigoted. The denunciation is a form of apology: an apology for Islam and for Muslims. The implication is that every Muslim is under suspicion of being sympathetic to terrorism unless he or she explicitly says otherwise. The implication is also that any crime committed by a Muslim is the responsibility of all Muslims simply by virtue of their shared religion. This sort of thinking − blaming an entire group for the actions of a few individuals, assuming the worst about a person just because of their identity − is the very definition of bigotry.


「(期待されているような)公然たる非難は、一種の謝罪である。イスラムについての謝罪、イスラム教徒についての謝罪である。つまり、すべてのイスラム教徒は、そうではないとその人がはっきりと言葉にしない限りは、テロリズムに対しシンパシーを抱いているという疑いをかけられている、ということを示唆しているのだ。また、ひとりのイスラム教徒による犯罪は、すべてのイスラム教徒の責任であるという決め付けがあることも示唆されている。その根拠たるや、信仰する宗教が同じだからというだけ。この種の思考、つまり少数の個々人の行動によって集団全体を責め、人の属性を理由として最悪の場合こういう人物だと想定するという思考は、まさにビゴトリーの定義そのものである」

「類型」っていうやつですね。「金髪の女性は頭が軽い」といったものもあれば、「あのおそろしい事件を起こしたのはオタクなので、オタクはみんな犯罪者」といったものもある。そこに科学的な見せ掛けがくっつくと疑似科学になって、古くは(てか大して古くない)ロンブローゾのようなものもあるし、今も現役なのは「血液型占い」。神経質なA型、気分屋のB型、大雑把な……っていう類型。

それらも深刻なんだけど、フィッシャーさんが述べているような「なぜイスラム教徒はテロを批判しないのか」という誤った問題設定がより深刻なのは、直接的に「ヘイトスピーチ」だから。

「イスラム教徒はクルアーンを否定することができない」+「クルアーンにテロを肯定する文言がある」=……というのが、その(ありふれた)「ヘイトスピーチ」の中身です。上で見たデイリー・テレグラフの見出しフィードにつけられたリプライもそれ。ほかにも、ちょっと検索すればいくらでもざくざく出てくる。この「クルアーンを否定すべき」論は2000年代の欧州で非常に活発に見られ、アメリカのネオコンの極端な方(パメラ・ゲラーなど)が飛びついて煽って増幅させたものですが、たぶんそれとは別の流れでインドのヒンズー至上主義でも根強くあるようです。






フィッシャーさんの文に戻ります。彼は続いてこう書いています。「この儀礼は、そろそろ終わりにすべきだ。ムスリムは、ムスリムでない人たちと同じくらい、テロリズムを憎んでいるという正しい認識を前提にすべきだ。イスラム教を信仰しているからという理由だけでムスリムに無罪立証責任があると想定してかかることはやめるべきなのだ」

イスラム過激派が何かをすると、過激派の考えとは異なる考えを抱いている人であっても、イスラム教徒である以上は「テロを非難します」的なことを言わなければ、「テロを支援している」と見なされる……それが「儀礼」化しているのは、このような決め付け (bigoted assumptions) があるからだ、とフィッシャーさんは厳しく指摘しています。そしてそこに潜んでいる循環論法についても。そして「そうでなければ、私たちはイスラム教徒ならシドニー立てこもり犯のハロン・モニスを非難して当然などとは考えないだろう。ハロン・モニスは正式な宗教団体とはまったく関係のない狂人であることは明らかだ。クリスチャン(キリスト教徒)なら(オクラホマ連邦ビル爆破犯の)ティモシー・マクヴェイを非難して当然だなどと考える人がいるだろうか」

ちなみに、ティモシー・マクヴェイはアイリッシュ・アメリカンでカトリックでした(犯行当時は無神論者だと言っていたけど、死刑執行前はカトリックだった。生い立ちもそう)。ノルウェーのオスロでカーボム攻撃したあと、ウトヤ島で銃撃して何十人も殺したアンネシュ・ブレイヴィクは、逮捕直後に「私はキリスト教過激派」みたいなことを言ってたんだけど、そのときにTwitterの人たちがどう反応したか。私はリアルタイムで見てたから覚えてるけど、「ムスリムじゃなくてよかった」だったんですよ。キリスト教徒が「キリスト教徒として彼を非難する」なんて言ったものは見てない。単に「彼をcondemnする」(あるいは「ノルウェー国民として……)というものはあったけれど、それは一般人ではなく「悪事をcondemnする立場の人(政治家など)」だったと思うし、そもそもあの事件は、ブレイヴィクが逮捕されるまでは「イスラム過激派のしわざ」だと、BBCもロイターも一斉に大騒ぎしていて、投降した犯人が「キリスト教過激派を自称する人物」であることはほとんど注目もされなかった。記録とってありますから見てください。それに、「KONY2012」とかいうばかばかしいキャンペーンでピークを5年くらい過ぎてから有名になった(らしい)ウガンダ、DRC、CARなどを活動域とするLRAこと Lord's Resistance Armyですが、この集団は奇矯なキリスト教根本主義ですね。"It claims to be establishing a theocratic state based on the Ten Commandments and local Acholi tradition" だそうですから。で、「KONY2012」のときに誰か、このあまりに凶悪な武装集団を「キリスト教徒として」非難したんでしょうか。……などとやってると終わらないので先に行きます。すぐ後に出てきますがイスラエルの入植者も、「ユダヤ教とは関係ない」と主張する人もいると聞いていますが、本人たちは宗教的信念で動いてますよね。

フィッシャーさんはさらに続けます。「同様に、例えば西岸地区の過激派イスラエル人入植者の行動の責任を、ユダヤ人全員におっかぶせる人がいたら、私たちは即座に、そのような立場は偏見によるものだと拒否する。そのような弾劾は憎悪に満ちたものであり、間違っている。私たちはそう了解している。しかしムスリムのこととなると、そうではない」

「この異なった基準は、ムスリムについてだけ適用される」とフィッシャーさんの分析は続きます。そしてそれへのムスリムの側からの見事な切り返しとして、Twitterの@LibyaLibertyさん(リビア系米国人のヘンド・アムリーさん)の次のツイートを紹介しています。(ヘンドさんの別のツイートは本エントリで既に参照しています。彼女をフォローしていない方はぜひフォローしていただきたいというアカウントです。)




フィッシャーさんの文章には入っていないのですが、ヘンドさんのこのツイートは、このあとのやり取りがすごい。お友達同士のコメディ。








こんなおもしろくてきりっとしててかっこいい姐さん、フォローしてないと損ですよ。

フィッシャーさんの文に戻ります。彼はこの「イスラム教徒としてテロを非難します」という「儀礼」が始まったのは、2001年9月、アメリカなど西洋諸国にいるイスラム教徒が、宗教を理由としたバックラッシュにさらされるのではないかと恐れたことから始まったと指摘しています。長々と書ける場だったらフィッシャーさんはきっと、第二次大戦時の日系米国人の強制収容に言及していたのではないかと思います(以前、そのことについて書いていましたし、この話題は今もアメリカで語られています。「過ち」として)。










2001年、当時のブッシュ大統領は「イスラム教徒全体」への偏見の高まりを恐れ、イスラム教徒の米国人も同胞として排斥しないようにという演説をおこなった、とフィッシャーさんは述べています。しかし――ここは問題だと思うのですが――、ブッシュがそう言っている横で、極めて宗教的で排外主義的な考えの武装した集団(「正戦」論の米軍も、エリック・プリンスのような人物が率いるBlackwater社をはじめとするPMCも含め)がイラクにむちゃくちゃなことをしていたということについてはこの記事には記載はありません。そして、ブッシュが「ゴッド・ブレス・アメリカ」と言いながら何をしたか(何をしなかったか)ということについて「キリスト教徒として非難します」という声が上がったのかどうか、そういう声が上がって当然だというムードがあったのかなかったのか、といったことも書かれていません。こういう「非対称」が、いろいろなエクリチュールに内在しています。

フィッシャーさんは、何かあると『イスラム教徒として私は非難する』とイスラム教徒の人が言い、大統領も「イスラム教徒が敵なのではない」と語ったけれども、「『イスラム教徒として……』が繰り返されるたびに、私たちは、そうだ、イスラム教徒は『推定有罪』なのだと思い起こすことになり、イスラモフォビアはフェードアウトすることはなくむしろ長く続くことになった」と経緯を振り返り、その過程でメディアの果たした役割(煽動の装置)を分析しています。それは排外主義的なケーブルニュースだけでなく、善意の大手メディアも、とにかくまずは『イスラム教徒として私は非難する』というイスラム教の組織の代表者のコメントなどを流すという態度によって、加担していた、と。このジレンマ。

(今の日本では「朝鮮学校」をめぐる言説や政治・行政の態度に少しありますよね、こういうの)

There is no question that this coverage is explicitly and earnestly designed to combat Islamophobia and promote equal treatment of Muslims. No question. All the same, this coverage ends up cementing the ritual condemnation as a necessary act, and thus cementing as well the racist implications of that ritual. By treating it as news every time, the media is reminding its readers and viewers that Muslims are held to a different standard; it is implicitly if unintentionally reiterating the idea that they are guilty until proven innocent, that maybe there is something to the idea of collective Muslim responsibility for lone criminals who happen to share their religion.


フィッシャーさんは、「イスラム教徒に対し、集団責任を求めることはもうやめにすべきだ」と主張します。「そのようなbigotedな考えは、私たちの社会には居場所のないものだ」。

There is no legitimate reason for Muslim groups to need to condemn Haron Monis, nor is there any legitimate reason to treat those condemnations as news. So we should stop.


そしてシドニーの立てこもり男のような人物について、個人として扱うことが必要であり、同時にイスラム教徒については、「何かあるとそのたびにいちいち拒否を言明するものと想定される下級の人間ではなく、テロリズムを受け付けない普通の人々」として扱うことが必要だと述べています。

フィッシャーさんのこの文章に、私は深い共感を覚えます。「差別」ということについて、その深さについて、「言葉」に内在する構造について、このような明確な文章を書いてくれたフィッシャーさんに感謝したいと思います。

私はこれは人権の問題、人としての尊厳の問題だと思います。




なぜ彼らは常に、「ほかのイスラム教徒」の行動について気にしながら生きていかねばならないとされるんでしょう。

私は(葬式)仏教徒ですが、「ほかの仏教徒」の行動(やたらと戦闘的な仏教もありますからね)について常に気にしながら生きていかねばならないのなら、儀礼として持っているお数珠ももう使わず、完全な無宗教になることを選びます。親戚からいやな顔をされようとも。そこまで「宗教」に支配されたくありません。

個人的にこんな体験があります――戦争の話題になると「ジャップ」である私は防御的になり、そうなると英語圏の人たちが、「あなたが自分でやってもいないことについてすまながる必要性はない (You don't need to feel sorry for what you even didn't do)」と言います。

そして「けど気持ちはわかる。私も自分の祖先が先住民にしたことをすまないと思っている (But I know how you feel. I'm sorry for what my white ancestors did to the native Americans)」と続き、「そんなことが二度とないように (Never again)」というところに着地する。日本人にとっての真珠湾奇襲、北米の人にとってのネイティヴ・アメリカン、豪州の人にとってのアボリジニ、そして英国の人にとってのアイリッシュや、インド、ケニアなど世界各地の植民地の人々への構造的暴力。そう、私たちはそれを「知って」いるのですよ。知っていて、「悪い」ことだと認識しています。人道に外れたことだと考えています。強制収容も、原爆投下も。

しかし、それ(例えば原爆投下)について常にその人(その場合アメリカ人)が批判、非難したり、謝罪したりするのが当たり前、と想定してかかることは、その個人を無視したことで、大げさな言葉を使えば人権侵害だと思うのです。(と書くと、「行きすぎた個人主義」だの何だのとフクロにされる可能性が否めないのが、昨今の日本の現実ですが。)

人が「人」である前に、「アメリカ人」だったり「イスラム教徒」だったり、「女」だったりしなければならないような社会には私は住みたくないし、そこらを走り回っている子供たちもそんな社会で育つのはさぞ窮屈だろうと思います。

























しかもアメリカのアイリッシュは、IRAのやってることを「テロ」とは認識していなかったし、IRAのことを「テロ組織」だとは思っていなかった。2001年9月11日までは「テロとは何か」も知らなかった。BBC記事などで確認できます。IRAはリビアと結んでいた。けど、リビアをテロリストと断罪していたアメリカのアメリカ人は深くは考えなかった。














【お願い】

本エントリを、布教の踏み台にしないでください。

私がこれを書くためにかけた時間を、

布教のために勝手に使わないでください。




【追記】下記はあるTwitter & はてブユーザーさんのはてブからTwitterへのフィードについて。こういうことがあると、はてブの「コメント」を非表示に設定しておいてよかったと思う。






※この記事は

2014年12月17日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 08:00 | TrackBack(4) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

彼ら・彼女らにはどのような悪罵が投げつけられているか……ある英国人改宗者のツイート
Excerpt: 先日のエントリに、かなりの反応をいただいたが、そもそも「英語圏でのイスラム教徒はどのようなヘイトスピーチにさらされているか」は日本語圏では知られていないと思うので、自分に見える範囲のことしか知らないに..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2014-12-19 08:02

[トンデモ]「ムスリムはテロを非難すべきだ」という太宰メソッド
Excerpt:  『シャルリー・エブド』へのテロについて,ブックマークでは色々と書いているが,ブログでエントリにするにはまだ自分の中でよく整理できていない。どの方向にも一定の正しさがあり,どのように天秤の重りを置く..
Weblog: Danas je lep dan.
Tracked: 2015-01-15 20:19

貴重なご意見ありがとうございます。しかし、せめて、読んでから言っていただけないでしょうか。
Excerpt: そもそも、「もしもーし、リンクする記事が違ってますよ」っていうことなのだが、当該の記事(「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。)を読んでい..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2015-11-21 07:17

2005年7月7日から11年。今日、「テロリズム」について何か1本読むとしたら、まずはこの文だ。
Excerpt: 7月7日である。あれから11年が経過した。 昨年、10周年のときに書いたことについて「ああ、言われてみればそういうこともありましたねー」という反応があったし、USA Todayはつい最近のツイートで..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2016-07-07 23:30

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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