「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2014年11月29日

「なかったことになった」よりたぶん悪い。












BBCの記事(ツイートに入ってる)見てみ。記事読めなくても写真あるから。ホスニ・ムバラク崇拝者の写真が。(2011年のときからああいう雰囲気の女性たちの写真はがんがん流れてきていた。)

ほんで、2013年のクーデター(モルシ追放)のときにタハリール広場に人々が集まったのを見て「をを、エジプトのデモはやはりすごいな」的な中身のないことを言って、それっきり忘れてしまったような無責任な人たちがツイートしていた写真に写っていたのが、こういう雰囲気の女性たち(「中産階級の奥様」のオーラをがんがん出しまくっているような)だったこととかも思い出そう。

私はそこらへんまではけっこう記録はしてある。NAVERとかChirpstoryとかで。(掘ってください。)

これでエジプトの「革命」は「なかったことになった」のだが、「なかったことになった」より悪いんじゃないかというのは、それにより国際関係に影響が及んでいる点。特にエジプトとロシアの接近(エジ政権上層部では「ソ連」と言ってるじじいがいるとエジプトのジャーナリストが笑っていたが、MENAの「ソ連」世代が今のこの政治的な環境のもとでロシアと接近したがっているというのは、ろくなことじゃない)。



こーゆーのがあったよね。

2011年02月10日 #egyjp トランスレーター必見:The funniest joke in the world.
http://nofrills.seesaa.net/article/185175503.html


それより、今熱いのはこちらかしら。



曖昧な書き方をしますが、危険にさらされうる人と直接につながっている方は、ちょっとだけ警戒レベル上げてもいいかもしれないです。




追記(12月1日)

「なかったことになったより悪かった」のは、もちろん国際関係だけではないです。エジプトで顕著だったのが、「人命が失われることへの無関心」。アレクサンドリアのハリド・サイードというひとりの青年の無残な拷問死への憤りが発端だったはずのあの「革命」は、《大量死》の末に、「死への無関心」というか「奴らは死んで当然」というゆがんだ正当化を生じさせ、それはたぶんひとりひとりの心に大きな傷を残しているだろうと思います。

2013年8月の「反クーデター」のラバア座り込みに対する政権側の武力行使(数値はいくつかあるけれど、大雑把に1,000人殺されてる規模)のときに、私は自分の見てる画面に流れてきたエジプトの「リベラル」、「革命活動家」たちの多くの、「いや、だってあいつらムスリム同胞団だし」、「あいつら武装してるし」的な無情な言葉に打ちのめされました(もちろん、そんな人ばかりではなかったけれど)。武装してない人(エジプトでおなじみの「棒」すら持っていない女性や子供たち)についてまでも、「殺されて当然」といわんばかりの態度。結局、「タハリール広場の革命」という美しい夢は、「本質的にリベラルな人々(自由主義者)の理想追求の姿」というより、「一時的正義感に駆られた中産階級のお坊ちゃんたち(大学生やIT業界人)の気まぐれ」だったのではという内容のコメントを当時どこかで見たのですが(Foreign Policyの記事か、コメント欄だと思います)、基本的には同感。

それと、シーシー政権下での「民主的な抗議行動」の違法化(プロテスト法)。これは、私は英語の報道記事などで概略を読んだだけですが、かなりとんでもない。

それでも彼らは生きていくのだろうし、生きていかねばならない。私の見ている画面にすっかり流れてこなくなったエジプトからのツイートの向こう側の「人」のことを思うと、やりきれない気持ちになります。労働運動の活動家も、人権運動(拷問禁止運動)の活動家も、学者も大学生もジャーナリストも……大学生はもう卒業していますが。



アルジャジーラのカイロ支局はつぶされて、2011年に時には当局に拘束され、時には「匿名」になりながら、必死に伝え続けていたアルジャジーラ・イングリッシュのジャーナリストたちは、投獄された彼ら4人のほかは、それぞれ別の場所に行ってしまっています。アイマン・モハルディーンは局を移籍しているし、シェリーン・タドロスはドーハのスタジオを経由して今は別の局。ラウヤ・ラゲは常にアフリカ大陸のどこかからニュースを伝えています。








(BBC, オーラ・ゲリンがまた冷遇されるようになってきましたよね……)

このオーラ・ゲリンの報告に出てくる「息子を殺された女性」のお肌がね、ムバラク無罪で大喜びしてる奥様方と全然違うんですよ。それは「階級が違う」ことを物語っているのだと思います。エステに行く階級かそうでないか。
タグ:エジプト

※この記事は

2014年11月29日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:42 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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