kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2014年11月19日

息子を殺した男の死刑判決に、「これは、私たちと同じ思いをすることになる親御さんがいるということです」と述べる人。

BBCのウェブサイトでニュースをチェックしている人なら必ず、軍事・安全保障の分野で解説しているフランク・ガードナー記者の記事やニュース・クリップは、見たことがあるだろう。名前は把握していなくても、「テロ」に関するニュースで50歳くらいのジャーナリストがてきぱきと解説している映像を見たことがあるという人は多いはずだ。

そのガードナー記者、ニュース・クリップでは胸から上しか写らないから気づかない人も多いかもしれないが、車椅子利用者である。彼が下半身の自由を失ったのは、外傷が原因だ。それも取材中に、「テロリスト」に襲撃されたことが理由だ。

2005年6月の、ブログ「NewsでNonfixな日々」さんの記事より:
http://blog.livedoor.jp/soliton_xyz/archives/25640606.html

BBCのフランク・ガードナー(Frank Gardner)記者(43)は、学生時代にアラビア語を学び、カイロで1年間ホームスティをした後、投資銀行家として中東で働き、1995年にBBCに入局した。
そして、アラブの文化に理解と共感を持ったガードナー氏は、アルカイダに関する専門家と見なされるようになった。

昨年(※引用注: 2004年)6月、ガードナー氏は、情報局の許可を得て、サウジアラビアの首都リヤドの南部、アルスウェイディー(Al Suweidi)で取材を行っていた。

そこは半年前に銃撃戦があった場所で、カメラマンのサイモン・カンバーズ氏と、情報局が手配した2人の案内人が一緒だった。

取材をほぼ終えて片づけをしようとしたところに、車が近づいてきた。
車から笑顔を浮かべた若者2人が降りてきて、白いローブの内側に手を入れた。

「止めろ」と叫んで、ガードナー氏は走り出したが、銃声がして肩に痛みが走った。
さらに銃声が続いて、気が付くと地面に倒れていた。足も撃たれていた。

車2台を使った待ち伏せ攻撃だった。


ガードナー記者は脊髄の神経を切られた。カメラマンのサイモン・カンバーズさんは銃撃を受けてその場で死亡してしまった。36歳だった。
http://www.simoncumbersmediafund.ie/about-simon-cumbers/

10年前のこの事件で、銃撃犯に死刑判決が出されたというニュースがあった。そして、亡くなったカンバーズさんのお父さんは、その判決について、「私たちと同じ思いをすることになる親御さんがいるということです」と述べた。つまり、息子を自分たちより早くあの世に送らねばならない親が、また1組できてしまう、と。






Simon Cumbers was originally from Navan, County Meath, in the Republic of Ireland.

The 36-year-old cameraman was filming a report for the BBC about al-Qaeda near Riyadh in June 2004 when gunmen opened fire on the crew.

Cumbers, who had also previously worked for ITN and Channel 4, died at the scene of the shooting.

In a family statement issued to Irish broadcaster RTÉ on Monday, his father said: "I have mixed feelings about the sentencing.

"On the one hand, I am pleased that the murderer has had his fate decided and that the long wait is over.

"It won't bring Simon back, but it puts an end to the waiting."

"On the other hand, both Bronagh and I sympathise with Dubayti's [the sentenced man] parents, who must now suffer that tremendous loss that we feel."

http://www.bbc.com/news/world-middle-east-30092029
18 November 2014 Last updated at 05:05


RTEの記事:
http://www.rte.ie/news/2014/1117/660278-simon-cumbers/

アイルランドでは、サイモン・カンバーズさんを記念するメディア基金が創設され、西洋のメディアがなかなか注目しようとしない地域にカメラとマイクを持っていき、伝えるべきものを伝えるということをしてきた故人(彼は元々は記者だった)の生前の活動を讃え、それを引き継いでいく若手の育成活動にあたり、毎年の優れたジャーナリズムを顕彰・表彰している。
http://www.simoncumbersmediafund.ie/
http://www.simoncumbersmediafund.ie/category/project-showcase/

今年9月、アイリッシュ・タイムズでリビアのことを伝えてきたマリー・フィッツジェラルド記者が、同じくアイリッシュ・タイムズの写真家、ブレンダ・フィッツシモンズさんと一緒にビルマを取材した連載記事が出たのだが、それがサイモン・カンバーズ・メディア基金の助成で行われたものだったそうだ(今知った)。
http://www.simoncumbersmediafund.ie/project-showcase/burma-a-new-dawn-by-mary-fitzgerald/

フランク・ガードナー記者は、2005年4月に職場復帰した。
http://www.bbc.com/2/hi/programmes/real_story/4455057.stm

2008年には下半身不随の人が使う「ボブスキー」という装備でイタリアで滑り:
http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/other_sports/winter_sports/7238935.stm

2009年には、「手足を失った英軍人たちのスキー」というトピックでの報告もしている。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/7962172.stm


※この記事は

2014年11月19日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 02:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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