「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2014年10月29日

北アイルランド紛争は、醜いんです。そこには性暴力もあったんです。

この半月ほど、北アイルランドのニュースは(そのときそのときの自治議会のことなどは別として)この話題でもちきりだ。ちょうど今年の前半に「OTR (on the runs)」の話題でもちきりだったように、あるいは2005年に「ロバート・マッカートニーさん殺害事件」の話題でもちきりだったように。


北アイルランド紛争について、少しでも本気で調べたことのある人なら必ず知っている人名というのがいくつかある。「ジョー・カーヒル」はそのひとつだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Joe_Cahill

以下、このウィキペディアからかいつまんで。

ジョー・カーヒル(Joe Cahill, アイルランド語名はSeosamh Ó Cathail)は、アイルランド独立戦争のさなかの1920年5月、12人きょうだいの長子として、ベルファストのディヴィス・ストリートにある小さな印刷屋の2階に生まれた。父親は印刷業を生業とするアイリッシュ・リパブリカンで、この印刷屋でリパブリカンの刷り物が印刷された。隣には、1916年の蜂起(イースター蜂起)の首謀者としてダブリンのキルメイナム刑務所で処刑されたジェイムズ・コノリーが住んでいたことがあったという。

ディヴィス・ストリートは、ベルファストの市街地から西へ伸びる大通りで、少し西に進んだところで「フォールズ・ロード」と名前を変える。北アイルランド紛争で頻繁に名前が出てくる「ディヴィス団地(ディヴィス・フラッツ Divis flats)」(現在は1966年建築のディヴィス・タワーと呼ばれる一棟が残されるのみ)がランドマークだが、カーヒル家の住んでいたところはまさにそのエリアだ。

父親が病気になったため、ジョー・カーヒルは14歳で学校をやめて家業の手伝いをすることになる。その後、10代のうちにリパブリカン活動に入り、1940年代には警官を殺したIRAの6人のユニットの一員として死刑判決を受けるが、このユニットは1人を除いて終身刑に減刑され、カーヒルは1949年に釈放される。その後、1950年代のIRAの活動(「ボーダー・キャンペーン」と呼ばれる)で再度逮捕され、1962年に釈放。

そして運命の1969年。既にプロテスタント過激派(イアン・ペイズリーらを含む)による暴力が激化し、「カトリック」と「プロテスタント」の衝突を防ぐためとして英軍が介入していたが、1969年8月、その英軍は「プロテスタント」(というか「体制」だが)の側について、「カトリック」の一般市民に銃撃を加えた(バリーマーフィーの虐殺)。西ベルファストでの非道な流血に際して、「カトリックのコミュニティを守る」はずのIRAはほとんど何もしなかった。「ナショナリズム」(「ネイション」を守ること)よりむしろ「反帝国主義」(←東西冷戦の文脈で)を掲げる指導部(ダブリン)はベルファストのことをよく知っていたとは言えず、「これはIrish Republican Armyではない。I Ran Awayだ」と人々に呆れられる始末。これではいけないと、武装闘争主義のベルファストなど北アイルランドのリパブリカンが分派したのがProvisional IRAで、ジョー・カーヒルはその分派の中核的な存在だった。

つまり、こんにち私たちが「北アイルランド紛争」を語るときに「IRA」と呼んでいる武装集団を始めた武装闘争主義者の親玉のひとりである。

IRAの指導者だったカーヒルは2004年、84歳で病没した。晩年はジェリー・アダムズが中心となって進めた「和平」の路線を熱心に支持していた。特に1994年のIRAの停戦に際しては、カーヒルの渡米ヴィザが下りたことの効果が大きかった。(このヴィザの件は、ビル・クリントンの思い切った決断。これによりカーヒルが直々に渡米してアメリカ人のIRA支持者を説得することができた……いやぁ、その「アメリカ人のIRA支持者」ってのが……と話が長くなるのではしょるけど、あの人たち、2001年9月11日にあんなことが起きて始めて、「一般市民の上に政治的暴力が降りかかること」の意味がわかったそうで、なんというか。それまで自分たちが何に金を出してるのか、把握も想像もしてなかったということで。しかもシン・フェインの掲げる理念が「ソーシャリスト・リパブリック」だということも知らなかったとか、話にならない。)

つまり、ジョー・カーヒルといえば「泣く子も黙る」ような存在だ。西ベルファストでは「代々リパブリカンの家」(IRAがまだIRB, Irish Volunteersだったころから活動に身を投じてきた家。「祖父の代から」、「父の代から」というパターン)がいくつもあるが、カーヒル家(ジョーは12人きょうだいの一番上だった)はその中でも有力だ。ちなみに、ジェリー・「IRAに在籍したことは一度もないし、弟のことはよく知らない」・アダムズのアダムズ家もそういう「リパブリカンの家」だし、シン・フェインの活動家で、文章を書くことによって「戦争」を(比喩的に)戦ってきたダニー・モリソンもa strongly republican familyと描写される家の息子である。

そういう、いわば「その筋の名門」の家に「スキャンダル」が持ち上がるとき、ただでさえprettyではありえないスキャンダルは、完全にuglyな領域に入る。

「北アイルランド紛争」は醜い。「和平プロセス」も醜い。くまちゃんあひるちゃん化してきゃっきゃうふふしていたくなる気持ちもわからんでもない。(なお、←のリンク先のBBC記事を書いたBBC Northern Irelandの政治記者さんは、みんなが唖然とするなか、先日いきなり「仏門に入って」しまわれた。「仏門」ってのは成句で、実際には「キリスト教の修道院」だけど。記事はこちら。)

けれど、真実 (truth) は、くまちゃんあひるちゃん化してみたり、へらへらしてみたりしても消えるわけではない。The truth has not gone away, you know.

それでも「消そう」、「なかったことにしよう」という意思がものすごいんだけどね。うん。今から10年ほど前の「北アイルランド」のニュースのキーワード、"peace before justice" は、南アフリカ流の "truth and reconciliation" の前段階(「武力紛争が続いていては、何も始まらないでしょう。まずは武力の停止が重要なはずです」的な)のはずだったのだけど、実際にはそれが金科玉条というか錦の御旗というか神聖にして侵すべからずというか、「誰ですか、justiceなんて言ってる人は」という状態で、あらこんな時間に誰かしら。

つまり、いくら「カリスマ的な政治家」であっても、民主的な選挙手続きが前提されているところで30年以上もずっと同じ人物が党首であり続けているということは、ごにょごにょ。(アダムズがシン・フェインの党首になったのは1984年。前の世代のカリスマ指導者、ロリー・オブラディはこのときに党から「追い出された」形で、分派して「リパブリカン・シン・フェイン RSF」を立ち上げることになった。)

だからいろんな憶測が、うわ……うわ、宇和島はみかんの名産地ですよねー。

そういう憶測の中には、「事実」よりも「うらみつらみ」のほうが大きくなって「異形のもの」を生じさせているようなケースもあるかもしれないのだけれど、仮にそういうことがあるとして、だからといって「カリスマリーダーと和平プロセス」が清く正しく美しいということにはならない。

全部醜い。でもその中で「よりよい/まだまし better」の選択を重ねていくしかなかったのだ、「紛争」を終わらせるためには。北アイルランドを「正常化 normalise」するためには。

ということになっている。少なくとも、現在維持されている《物語》においては。

というわけで、冒頭の件だ。
https://twitter.com/nofrills/status/522043401668026368

「紛争」の時代、IRAの支配地域ではIRAが警察として振舞っていたことは、映画『父の祈りを』の冒頭のシーンでわかりやすく説明されている通り。

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「ナショナリストのコミュニティ」にとって「警察は敵」だったので、コミュニティに警察を入れることは基本的にせず、コミュニティを支配していた武装勢力が「秩序」を維持する警察力としても機能していた。アイロニーとしか言いようがないが、「不法」な集団が「法」をつかさどっていたわけだ。(ただしその「不法」は、「アイルランド島における英国の存在が不法」という立場から見れば「正当な権力」である。すべては相対的だ。)(わしのことをシンプル脳とかいって罵倒したバカがいたんだけど、北アイルランドやってればこのくらいのことはわかってますんで、私の脳のことはご心配なく。)

IRAに入っていない者たちによる泥棒やドラッグ密売のような「秩序」を乱す行為は、実力で罰された。具体的には、膝の皿を撃ち抜くというやり方。俗にknee cappingと言う(これが多発したので、北アイルランドの救急隊員や医師は、「膝の皿」にかけてはめっちゃ腕がいいらしい)。報道ではparamilitary style punishment shootingなどと表されている。

IRA内部では「軍規」違反ということで「裁判」というか「軍法会議」のようなものがあり、「追放」(北アイルランドから出て行け=共和国側に行けとか、島の外に出ろとか)などの懲罰があり、その「秩序」は武力(実力)で維持された。最も重い刑はむごたらしい銃殺で、これは「敵」方に情報を流した者(IRAの用語でいうtout)に適用された。

けれども、IRA支配地域内での犯罪行為は、IRAが無視すればそれまでだ。(普通の警察だって「被害届を出しても取り合わない」とかいうような対応をすることで事実上「無視」をすることはあるが、そうだからといってIRAが犯罪行為をスルーしていたことは正当化されない。)

そういうところに存在しているといわれてきたのが性犯罪、性暴力である。

(以下、15日から今日までのツイートを貼りこみ、先日のBBCの要旨を書く。作業中)(→あまりに「藪の中」なので作業ストップ。10月31日決断。)

ジョー・カーヒルの葬儀の様子のビデオ(2004年)。ブレンダン・ヒューズの葬儀とは違って、ジェリー・アダムズがメインでカーヒルを見送った。(ヒューズの葬儀では、70年代、80年代の盟友だったにもかかわらず最終的にはアダムズを嫌うようになっていた故人の遺志を汲んで「こっち来んな」扱いされた。そのことが、米ボストン・カレッジのオーラル・ヒストリー・プロジェクト潰しに関係していないとは、私には思えない。プロジェクトの中心メンバーは、西ベルファストのシン・フェインの強い地域の壁に、「あいつはtoutだ」と名前を書かれるという目にまであっている)




※この記事は

2014年10月29日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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