というわけで過去記事を読み返していた。デイヴィッド・アーヴァインが亡くなったときの記事から、再掲したい部分があったので再掲しておく。
ジャーナリストのPeter Taylorの "Loyalists" という著書の序章に、ビリーという名のUVFパラミリタリーのことが描かれている。
※ハードカバー(入手困難)
Loyalists: War and Peace in Northern Ireland Peter Taylor TV Books Inc 1999-05 by G-Tools |
※ペーパーバック
Loyalists Peter Taylor Bloomsbury Publishing PLC 2000-01-17 by G-Tools |
ビリーは東ベルファストのワーキングクラス・プロテスタント地域で生まれ育った。その地域で育つこととは、ロイヤリズムを吸収することだった。彼は10代で UVFに加わった。UDAを選ばなかったのは、「UDAはあまりに大きすぎると思われた」からだった。(UDAは、各地域でそれぞれ自発的にできた「自警団」みたいな組織を全国組織みたいにまとめたもの。)親には秘密にしており、電話に出るのでも出かけるのでもいつも「ちょっと」みたいな言い方をしていた。「自分は親にうそをついている」と心理的な重荷をビリーは感じていた。
UVFに加わって戦闘訓練は受けていたものの、特に実際に活動することもなく、彼はだんだんと組織から遠のいていった。ほかの多くのメンバーもそんな感じだった。ビリーは仕事をし、時々は職場の友人を家に連れてきてお茶を飲んだりビデオを見たりもしていた。特にセクタリアンな考え方の持ち主ではなく、その友人はカトリックだった。
だがあるとき、教会の日曜学校の女性の先生(暴力には無縁)が、リパブリカンによっていきなり後頭部に1発ぶちこまれるという形で殺される。この事件でビリーはUVFに戻った。ほかにもそういうメンバーが何人もいた。時期は1980年代、81年のリパブリカンのハンストで、IRAが勢いを得ていたころだった。
UVF は、日曜学校の先生の射殺の報復を計画する。報復なのだから、殺された先生と同じように、暴力には無縁のカトリックを殺さねばならない。話し合った末、ビリーたちUVFの活動家はターゲットを決めた――ビリーが時々自宅に招いていた、職場のカトリックの友人がターゲットに選ばれた。
計画を練っていたとき、ロイヤリストの大物がINLAによって射殺された。その報復を一刻も早くせねばならない、とUVFの指導部は決めた。ビリーたちの報復の予定は繰り上げられた。
ビリーは職場の友人を、いつものように、車に乗せた。そして車をしばらく走らせて、そして、彼の後頭部に銃弾を1発撃ちこんだ。「その瞬間、自分の一部が死んだ」とビリーは後に獄中でジャーナリストに語った。職場の友人の妻は、ビリーが彼を娘の見舞いのため病院に送っていってくれたのだと信じていた。夫が殺されたことを知ったとき、彼女は「お願いだから、もうこんなふうに人を殺すのはやめにして」と泣いた。
ビリーは逮捕され、いくつもの容疑で有罪となり、終身刑を宣告され、メイズ刑務所に収監された。息子が人を殺めたことが事実だと法廷で明らかになったあと、刑務所に送られる息子の手を握った父親は、その場で気を失ってしまった。
獄中で、ただ有り余るだけの時間を得て、彼はそれまで縁のなかった「教育」に向かう。何の学歴もなく資格もなく、中卒で働いていた彼が、獄中の学習会で高卒の資格を取り、その後獄中オープン・キャンパスで政治学を勉強し、学位を取った。講師はビリーの熱心さに強く印象付けられたと語っている。
ジャーナリストは獄中のビリーを取材に訪れた。ロイヤリストの囚人といえば筋肉にこだわるマッチョマン、というなか、ビリーは部屋で本を読んで過ごしていた。ジャーナリストは彼がパラミリタリー活動に手を染めた経緯を詳しく聞いた。職場の友人を殺したことについて、ビリーは「北アイルランドだからこんなことになった」と述べた。ジャーナリストは「でもあなたが自分で決めたのでしょう? 友人を殺すことを」と突っ込んだ。ビリーは「確かに自分は知っている人間を殺した。だが、もし自分がイングランドに生まれていたら、相手がカトリックだからって人を殺そうと決意したりはしなかった」と答えた。
ビリーは10年ほどで仮釈放となった。ジャーナリストはそのことを知らず、1998年のグッドフライデー合意のときに、自分が建物の外で取材してるまさにそのときに、建物の中で、あのビリーがPUPの代表団として合意文書の作成に関わっているなどとは、夢にも思っていなかった。
出所後、ビリーはPUPで政治の仕事をしていた。けれども収入を得るための仕事となるとろくなものはなかった。「殺人犯」への風当たりは強く、学位があっても、生活保護を受給するのとたいして変わらない程度の収入しか得られない。
北アイルランド和平合意は成立したし、ビリーは和平合意に関わった。けれども彼の「戦い」は終わらなかった。「あの日」を境に、ビリーの一部は永遠に死んだ。彼の「戦い」は、そのこととの「戦い」だったのかもしれない。
ガールフレンドとの結婚を前に、彼女の兄(スコットランド在住)の家で独身最後の男だけのバカ騒ぎパーティーに出かける前日の晩、彼は両親の家を訪れて「これまでありがとう」と言った。両親は、結婚直前の息子が挨拶に来たのだと思った。
しかしその前に、ビリーは長い手紙をしたためていた。両親のところから自宅に戻ったビリーは、酒を飲んで、さらに手紙の続きを書いた。少し眠り、そして起きた。それから彼は、前もって用意していた縄を使った。
翌朝、迎えに来たガールフレンドの兄が、ビリーを発見した。
自分のことを綴ったビリーの最後の手紙には、「自分たちの世代のような経験を、子供たちの世代には絶対にさせてはならない」とあった。
※この記事は
2007年05月04日
にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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