「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2014年10月11日

「マララさん」について思うこと

わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女
マララ・ユスフザイ クリスティーナ・ラム 金原瑞人

武器より一冊の本をください 少女マララ・ユスフザイの祈り ぼくたちは なぜ、学校へ行くのか。: マララ・ユスフザイさんの国連演説から考える (単行本) I Am Malala: The Girl Who Stood Up for Education and Was Shot by the Taliban Because I am a Girl――わたしは女の子だから [生声CD&電子書籍版付き] マララ・ユスフザイ国連演説&インタビュー集

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「頭が押さえつけられ、スカートのすそがふんずけられている状態」に置かれている現場の女子にはね、「イスラームだから」だろうが「世の中そういうものだから」だろうが「親が保守的で」だろうが、違いはないんですよ。「私は勉強したい」んです。「医者になりたい」、「先生になりたい」、「研究者になりたい」、「弁護士になりたい」んです。「なんでもいいから勉強がしたい」んです。

「オウベイガー」、「スパイガー」厨がうるさいんですが、そんなの、彼女たちの問題じゃありません。そもそも「問題」なのかどうかもわかりませんが、そうであるとして、それは彼女たちを抑圧している側の問題です。彼女(たち)が明確に指摘した「抑圧」を無視し、放置すること、あるいはその「抑圧」を積極的に継続することにおいて必要とされる「言い訳」は何か、という問題です。



抑圧している側の論理・言い訳なんか、どうでもいいんです。

「女の子が学問ができると苦労する」、「あんまり偏差値が高くなると、お嫁にいけなくなるんじゃないかしら」……ブログやツイッターやってればやってるで「今まであなたのことを女性だと思っていませんでした。ごめんなさい」とかいう、それが「どうでもいい」ということ自体が理解もできなければ前提すらしていない善意の人たち(笑)からの心底どーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーでもいい話に付き合わされることが非常に多い私自身、実の親からそう言われ続けてきたし(そして最後には道をふさぐという妨害をされた。私も親に洗脳されてたから、当時はそれを「大した問題ではない」、「親を理解できない私が悪い」と思っていました)、そう言われている年下の女子の話をじっくり聞く立場になったこともあります。昭和30年代の話とかじゃないですよ。昭和50年代にもあったし、平成に入ってからもある(実際には「年代」の問題ではなく、「親の思想」の問題です。今になって社会のメインストリームに出てきたような「思想」や「思想運動」は、ずっと以前からあった)。

マララさんがすごいのは、何よりもまず、自分が「そういう女子」のひとりであるというところに立ってあの活動・発言を行なっているということです。そして、ただでさえ「女に教育はジャマ」という思想がデフォのこのクソのような社会で、いろんな理由付けをしては彼女の行動について「一方的に解釈」してくる周囲を意に介さずに、自分のすべきこと・自分のできることをするという強さ。

世界のどこででも、彼女がいてくれること、ただそれだけで勇気付けられている人は(たぶん女性に限らず)大勢いるし、特に「女は結婚して男の言うなりになり、家事をして子供を産むのが仕事、それ以外のことはするものではない」という《文化(笑)》が根強い地域の(まだ結婚させられていない)10代女子は、彼女を同じ時代を生きる「仲間」として持てていることで、きっと心強い思いをしているでしょう。世代が違っても、彼女に向けられた卑劣な暴力を知り、彼女の活動や発言を見てきた人たちはきっと。



んで、マララさんについて「スパイだーーー」とうるさい人が、こういうの↓は「欧米のスパイじゃないから」支持できるというスタンスであるとすれば(「このsisterたちは正しいことをしている」とかいう感じの)、それは単なるプロパガンダですよ。日本語圏でそんな人がいるかどうかは知らないけれど。(パキスタンからは、英語圏でも、いろんな話が流れてはきます。はい)



マララさんの活動について知り、支援したいと思ったら支援するには:







このカートゥーン。2012年の銃撃事件のときのものだが、彼女が対峙する相手が「タリバン」と書かれているのが、今の文脈では的外れになっている。彼女を銃撃したのはタリバンだけれど、彼女の銃撃を極めて消極的な形で歓迎し、今彼女のノーベル平和賞受賞に「オウベイガー」厨になることで防御的に反応している「一般大衆」は、(既に悪魔化されている)タリバンじゃない。「保守的な価値観の一般人」だ。



実際、彼女が教科書をつきつけているのは「タリバン」じゃない。過去、多くの女の人たちがそれを指摘しては嘲笑され、侮蔑されてきた「土着の文化」「伝統」ってやつだ。戦時性暴力に関する国際的な取り組みで、「武器としての性暴力」がここ数年ようやくフォーマルに認知されてきたけれど、それを認知させる過程では、しつこく、必ず、男たちによる暴力の正当化のために、「(西洋とは異なる)土着の文化」だの「伝統」だのが語られてきた。中にはほんとに「文化」、「伝統」というものもあるだろう。しかし多くは「ただの言い訳」だ。「戦利品」として獲得した「女」は、「飯炊き女」として奴隷とする、などということが、戦闘が近代化している中で、「昔からの文化」「伝統」として許容されうるという主張は、法廷では通るものではない。

略奪結婚(誘拐してきた女子を強制的に誰かの配偶者にしてしまう)なんかは、今もまだ「文化」、「伝統」で語られてる。FGMもそう。実際に大勢の健康が危険にさらされているのに、「文化」扱いされている。そういうのを「文化」扱いするのは、男にもいるし女にもいる。「反対していない女がいる」ことは「女一般が反対していない」ことを意味しないんだけど、なぜか「女が支持している」ように語られる。マララさんにもそういう「敵」が大勢いるだろう。

マララさんを支持するならば、少なくとも、そちら側に与してはならない。



で、「あれはアメリカのスパイだーーー」説を支持する日本語話者が、マララさんについて「(利用された)ガキ」とかいう口汚さを発揮しているのは、ありゃ何なんですかね。

で、「利用されたガキ」さえいなければ、彼女たちへの抑圧もなくなるんでしょうか。全部「欧米」が悪いんでしょうか。そもそも女に教育を与えるなどという発想がおかしいんでしょうか。

そうだと言う方、回線きってクソして寝てたほうがいいと思いますよ。



ゴミ。

※この記事は

2014年10月11日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:01 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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