kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2014年10月05日

「荒らし」という、ただ迷惑なだけの存在。

鈴鹿サーキットでF1の競技中に事故があって、ドライバーがひとり、意識不明の状態で病院に搬送されたという。

私はF1のことは何も知らないが、それでも普通にニュースなどを見てるだけで「ああ、F1の人ね」程度に認識している名前はあって、今回事故ったドライバーはそのひとりだ(どの国籍の人だとかどこのチームの所属だとかいうことは知らなくても)。

Twitterではtrending topicsにその名前が入っていた。




こんなニュースでも「荒らし」が出現している。




スノーデンの「死亡説」のひとつは記録取ってある。極めて悪趣味な「冗談ニュース」(オカルト系)のウェブサイトがやってたようだ。何が「冗談」になり何が「シャレにならない」か、何が「笑える」ものになり何が「悪趣味」になり何が「笑えない」ものになるかは、情報の流し手と受け手の間で共有されている前提やさまざまな条件次第で一律の基準などないとはいえ、このサイトのやっていたことは到底「冗談」にはならないと私は感じた。

それでも、こういう人たちが「同好の士」だけでつるんで、掲示板などできゃっきゃうふふしている分には、基本的には(「殺せ」だの「暴力団をけしかける」だの「犯すぞ」だの何だの言い出さない限りは)「自由」だと思う。

問題は、「喫茶店で同じテーブルを囲んでいる者同士の内輪話」のつもりで、「駅前の交差点で拡声器で演説している」状態になってたりとか、「道行く人を捕まえては自説を開陳している」状態になってたりすることで、そうなると聞かされる側がたまったものではない。

しかしその「聞かされる側がたまったものではない」ということが理解されないケースがままある。

特にTech系ではない私の視点からしか把握していないが、ブログ(ウェブログ)が一般化したのは、2003年以降だった。イラク戦争の直前から戦争の時期にかけて、「無料レンタルブログを使って、バグダードに住んでるイラク人が英語で書いている」ブログが注目され、その後、「個人の発信ツール」(同時は本当にこういうこっぱずかしい言い方をしていた)としてイラクでは雨後のたけのこのようにブログが林立、「バグダード・ブロガー」の多くが利用していたBlogger.comが文字コードとしてUnicodeを採用し、アラビア語など非ラテン文字も通るようになってからは急速に「当たり前」化した。

その後、2008年とか2009年にTwitterが普及期に入るまでは、「個人の発言の場」といえば何よりブログだった。そのブログを「書き手の書きっぱなしでしかないふつうのウェブサイト」(当時はまだGeocities.comなどの「個人サイト」と「レンタル掲示板」が標準的な「発信ツール」だった)とは異なる「議論や対話の場」としていたのが、ブログに設計理念として組み込まれていた「トラックバック」と「コメント欄」だった。

2005年ごろから英語圏の報道機関各社がそれぞれの記事のページに「コメント欄」をくっつけることが当たり前化したのも、ブログに代表される「Web 2.0」の流れの中のことだ。(なお、「コメント欄」という取り組みに関しては、ガーディアンがどこよりも先を行っていた。次が、びっくりするほど革新的な態度をとったデイリー・テレグラフだった。)

そうして「コメント欄があること」が当たり前化すると、今度はそこに「通りすがりが書き捨てていく」という問題が生じるようになった。「個人サイトと掲示板」だった時代に「掲示板」において、「荒らし」が(「業者のスパム」と同様に)問題となったことの繰り返しだった。

まともな批判でも何でもない、ただの罵倒みたいなのを投稿して、削除されると「言論弾圧だ」とさらに粘着してくるようなのも湧いて出た。

運営者に対する個人的な恨みを抱いた誰かが「荒らし」化する個人サイトの掲示板やブログのコメント欄だけでなく、「2ちゃんねる」のような不特定多数が出入りする場でも「荒らし」は常に現れる厄介者で、「無視する(餌を与えない)」、「荒らしの書き込みは淡々と削除する(証拠としてキャプチャ画像をとり、IPを記録しておく)」といった「荒らし」の対処法については、多くの場所でノウハウが書かれ、共有された。

だが、キャプチャを取ったりしておくのもいちいちめんどくさいし時間も取られる。それ以前に、荒らされれば精神的に削られる。「通りすがりの人が書き込める場」を設けておくことで得られる利益(情報だとか、楽しさだとか)が、それを設けておくことで否応なく背負わされる負担と見合わなくなり、「場」そのものを閉鎖してしまうということが多く見られるようになった。

誰かがブログでコメント欄を閉鎖したらしたで、今度は別の場で「言論弾圧だ」などと騒ぎ立てるようなこともあったが、基本的には「そういうのは相手にしないこと」、「見なければいい」というのが対処法。人の口をふさぐことはできないわけで。

しかし、Twitterの時代になって、そういう「対処法」があった時代は牧歌的だったとすら思わせるような「個人への攻撃」(しかも防ぎようがない)がいろいろ当たり前になってて、2000年代半ばの「Web 2.0」のユートピアンなバラ色未来(「みんなが意見表明の手段を手に入れれば世の中は風通しがよくなって、よい時代になる」みたいなの)は、結局「理想を言えば」という話だったのだろうと思う。「みんな」が手に入れたのは「クソリプを飛ばしたいときに飛ばし放題にできるツール」でもあり、「建設的な議論(批判を含む)とは何か」が共有されていない場でそのようなツールだけあってもどうなのか、という。

で、こういうの、「日本だけの問題」ではないので。

私が最初に「ものすごい荒らし」と遭遇したのは英語圏のブログのコメント欄だ。最初はまともに話せば通じるんではないかと何人もが(私も含めて)「あなたの言っていることはただの誤解に基づいた妄想だ」と説明しようとしていたが、説得を試みた全員がもれなく不当な罵倒の対象とされて敗退した。

その「荒らし」は、ある大学の教員を名乗っていた。その大学の教員名簿には、なるほど、確かにその人物の名前(本名を名乗っていた)がある。実際、その専門分野では博覧強記で、アメリカ人にしては(失礼)語学力も高い(マルチリンガル)。その「荒らし」はアメリカ人に対しては「俺は多言語話者だ。お前はどうせモノリンガルなのだろう、それで俺様に物申すのか、バカなアメリカ人が!」と罵倒し、英語を第二言語とする人に対しては細かな文法ミスをあげつらう、といった調子だった。いよいよ形勢が悪くなるとレイシズムの罵倒が行なわれる。日本人に対して「リメンバー・パール・ハーバー!」と言って黙らせる、的な手法だ。

やがてその「荒らし」が出てくると、出てくるだけで常連から「はいはい、お薬飲んで寝ましょうね」的なレスがついて、いちげんさんに「あれは相手にしてはならない」ということが告知されるようになったが、そうなるとそのブログのコメント欄は何のためにあるのかわからなくなる。そのブログのコメント欄は閉鎖することが告知され、みなそれは賢明な措置だと思うというレスを返した。そこでまでその「荒らし」は暴れていた。「言論弾圧だ」云々と。

そんなことを思い出したのは、消印所沢さんのサイトを読んだからだ。




ただ、Twitterで「ランダムに話しかけてくる人」が「荒らし」化するのは、ちょっと独特だと思う(自分のTwitterのページだけで《美しい物語》を語ろうとするので……。「被害者は僕」という物語を作るために誰かを「悪者」に仕立てるのは、Twitterの自分のページではかなり簡単だと思う。何しろ、一方的に @ を使って「他人と話しているふり」をすればいいのだから。上の例で言えば「僕が何度要請しても、あなたは直接質問に回答しようとしないんですね。何か都合の悪いことがあるんでしょうか」という物語は5分くらいで語れる)。



上述した「デマ(死亡説)」アカウントをみて、Sergio Perezが激怒したようだ。






※この記事は

2014年10月05日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 20:01 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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