「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2014年09月30日

ピーター・テイラーのドキュメンタリー、Who Won the War (北アイルランド紛争)

9月29日(月)、BBC Oneで、ピーター・テイラーのドキュメンタリー、Who Won the Warが放送された。英国内からの接続にできる人はiPlayerで次の月曜日まで見られるし、10月9日にはBBC Twoで再放送もある。
http://www.bbc.co.uk/programmes/b04jy8hf

ピーター・テイラーは40年以上にわたって北アイルランドを取材してきた英国のテレビジャーナリストであり、それ以上に、現地の人々からあつい信頼を得た数少ないイングランドのジャーナリストで(デリーの人から直接、「あの人は信頼できる」という言葉を私は聞いている)、英国におけるテロリズムの中心が「北アイルランド紛争」から「イスラム過激派」に移った過程を含め90年代から2000年代のことを書いた著書、Talking to Terroristsの第一章にあるように、後に「北アイルランド和平」にとって非常に重要な役割を果たすことになるデリーの顔役、コードネーム「マウンテン・クライマー」にも、リアルタイムでいろいろ打ち明けられていた。
0007325525Talking to Terrorists: A Personal Journey from the IRA to Al Qaeda
Peter Taylor
HarperCollins Publishers 2011-03

by G-Tools


だが彼は、最初に北アイルランドを取材したのは1972年1月30日のデリー、「血の日曜日」事件が発生した直後で(当時所属していた報道機関であの日の公民権デモを取材に行くはずが、いろいろ手違いがあって現地に飛べずにいたところに英軍による非武装デモ隊への発砲があり、現地入りを強行した)、自身、最初に関わったときはこんなに長く関わることになるとは思っていなかったという。

その彼が、1994年の停戦から20年という大きな節目(当時第一線にいた人々がみな生存していて話ができる時代は、そろそろ終わる。現にマーガレット・サッチャーとイアン・ペイズリーがもういなくなってしまった)を迎えて制作したのが、上で述べたWho Won the Warだ。

BBCの大型ニュース系ドキュメンタリーにはよくある通り、放送前の金曜日から、BBC Newsのサイトで事前特集記事が組まれていた。



BBCが最近立ち上げたタブレット端末に最適化されたインタラクティヴなレイアウトのBBCiWonderというコーナーで組まれたこの記事は、「なぜふつうの市民が武装勢力になるのか」を説明している。そこに出てくるのが、あの「ビリー」だ。



あの時代、「大人たちの理想論」に「染まって」武装勢力にあこがれた子供たちは、カトリックの側にもプロテスタントの側にも、おおぜいいた(日本で「昭和ヒトけた生まれ」が「軍国少年」だったように)。その人たちは現在50代、60代を迎えている。多くが憧れた武装勢力に入り、人を殺傷した。「UVFのビリー」のように、もういなくなってしまった人もいる。テイラーの番組紹介記事には、リパブリカンの少年が出てくる。

A recent encounter also had a profound impact on him when he tracked down Sean McKinley for the Who Won the War? documentary, 40 years after he had interviewed him in Belfast's Divis Flats in 1974.

The then 12-year-old boy told Taylor that he wanted to fight and die for Ireland when he was older. In 1987 McKinley was sentenced to life in prison for the murder of a British soldier.

http://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-29224218


1974年、まだいたいけな12歳の少年としてインタビューを受けたショーン・マッキンリーは、手の甲にIRAと書いている(のか、タトゥーかもしれない)を入れている。ベルファストのフラッシュ・ポイント、ディヴィス・フラット(ジーン・マコンヴィルさんがさらわれるまで住んでいたのもここだ)に住んでいた彼は、「大きくなったらアイルランドのために戦って死にたい」と語っていた。1987年、彼は英軍兵士殺害で終身刑を言い渡された(その後、1998年グッドフライデー合意の規定で早期釈放されている)。

番組関係記事はほかに何本も出ているので、それらは本エントリの末尾にまとめてURLを貼り付けよう。

以下は放送中の、私の北アイルランドのリストの様子。番組には上で述べた「12歳だったショーン」も出てくるし、「くまちゃんあひるちゃん」化する前のジェリー・アダムズも出てくる(あの人、こうだったんですよ。闇で光る冷たい刃物のようなイメージだった)。だが、放送中は政治家は番組については沈黙していた。ツイートしているのは「テレビ見てません」アピールのような活動記録。ジャーナリストもほとんど沈黙していた。「見ている」とも、「見る」とも、「見た」とも言わず。

私のリストに入っていない人も含め、#WhoWonTheWarのハッシュタグのアーカイヴもある。よりパーソナルで、より言葉が生々しい(私はきつくて読めない)。
http://chirpstory.com/li/232448

中で誰かが言っているが、決定的だった停戦から20年も経過したというのに、外部からは今なお「紛争地」のイメージで北アイルランドを見ようとする視線が注がれているものの、実際にはこの同じ番組を、「プロテスタント」も「カトリック」も同時に見て、そして同時に感想を述べ合い、ときには会話している。それが現実だ。

いつまでも「かわいそうな紛争地」のままではない。

これはレバノンの人たちも言っていたことだ。きっとバルカンでも、アフリカ各地でも言っていることだ。そして同時に、「紛争」から20年経ってもそう言えない人たちもいる(アフガニスタン、パレスチナ、ソマリア……)。
















↑やめてwwwww







↑なつかしいネタwwwww






ああ、これ。これがジェリー・アダムズだった。くまちゃんあひるちゃんじゃないの。


















↑ユニオニストとリパブリカンが、こうやって話している。














↑これねー。(笑)
BBCにあれを "war" と言わせたんだから、ロング・ケッシュ/メイズの勝ちでは。











そしておじさんたちは元サヤ(?)。Jaw-jaw is better than war-war.





この画像↓、Twitterの画像検索の一部で、右側の銃を構えている写真は上で引用したBBCのツイート、左側の小型犬を膝に乗せてテレビ見てるのはハーリングの試合を見てるマーティン・マクギネスなんです。これも、「ポスト紛争」の光景。私はもうこういうのにはすっかり慣れていて反応しないと思ってたけど、これには反応した。

30sept14.png



BBCの関連記事一覧:

Who Won The War? Revisiting NI on 20th anniversary of ceasefires
http://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-29369805

By Peter Taylor
メインの記事。番組制作の経緯を丁寧に語っているが、ここでテイラーはwarに引用符をつけて "war" と言っている。

A life in conflict: How Peter Taylor gained the trust of paramilitaries
http://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-29224218

By Peter Crutchley
BBC Knowledge & Learning
この記事ページの最初の写真が、もうね。80年代終わりから90年ごろだろうけど、UVFのがっちがちのミューラルの細部とピーター・テイラーで、このUVFのミューラルには彼らの祖父の世代が従軍した第一次世界大戦の戦地(ソンムとか)が書かれていて、今年開戦100年でいろいろ(薄く)振り返ってきた頭にはガーンとくる。「ジャーナリスト、ピーター・テイラー」についてたっぷり説明してくれる。

Martin McGuinness tells of mother's shock to find he was in IRA
http://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-29357920

番組から、マーティン・マクギネスの談話の部分について。家から黒ベレー(IRAの制帽)か何かが出てきたことで「うちの息子がIRAに入ってしまった」とお母さんがショックを受けたとか。(ところでマーティン・マクギネスの弟さんは写真家で、マーティンもTwitter初めてしばらくは写真をよくアップしていたが、素人写真がどんどんセンス良くなってくのがおもしろかった。それに引き換えジェリー・アダムズはほんとに適当な写真が多くて、あの「闇で光るナイフ」のようだったジェリーさんはどこなのかとw)

Lord Prior: Former NI secretary says IRA violence 'did work'
http://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-29364986

今回の事前特集記事で一番びっくりしたのがこれ。今、そんなこと言うか。Lord Priorはサッチャー政権最初のNI担当大臣で、1980年、81年のハンストを経験。あの時代のことを書いた本ではそりゃもういろいろと書かれてるんだけど、そのPriorが「IRAの暴力には効果があった」と。即効性はなかったがじわじわときいてきたと。それって、Who Won the Warの答えじゃないっすか。つまりThe Long WarをやったIRA。
http://www.goodreads.com/book/show/956826.The_Long_War
今言うなよ、それを、って思いませんか。私は思います。でもこの人も、年齢的に「最後に語り残す」段階。

上のピーター・テイラーの記事に出てくるけど、やはり「最後に語り残す」段階に入っているノーマン・テビットの発言なんかもね。。。うん。やはりイアン・ペイズリーが人生の終盤になってああなったのは、人生の終盤だったからなのかな、と(ペイズリーは、「神の声を聞いた」らしいんですが)。

14 dark days: Reporting some of the worst days of the Troubles
http://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-21688957

今回の関連記事に上がってるんだけど、2013年3月の記事。ITVを経て現在は米NBCで世界各地を飛び回って仕事をしているビル・ニーリーさんが「あの14日間」、つまり1988年3月のジブラルタルからミルタウン墓地(マイケル・ストーンの襲撃)、迷い込んだ英兵の殺害(ファーザー・アレック・リードのラストライツ)までのあの期間に、駆け出しのジャーナリストとして北アイルランドにいたということなど。

BBCで北アイルランドの大型ドキュメンタリーをやる調査報道ジャーナリストにはこのPeter Taylorのほか、John Wareがいる。Wareはより「武力紛争」「国家安全保障」寄りで、オマー爆弾事件は、事前にあの集団が爆弾テロを行なうということを当局がつかんでいたのに、なぜ防げなかったか(防がなかったか)といったことを追跡している。

※この記事は

2014年09月30日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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