「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2014年09月20日

その「テロリスト」の青年は写真家のレンズの前で、顔を隠していなかった――岡村昭彦の写真展(9月23日まで、東京・恵比寿)

ところどころ岩が覗く、起伏のある緑の草原で、片膝を立てて左腕を自分の前に出して支えとして、右手で構えた拳銃の引き金を引いている青年は、フードつきのアノラックのようなものを着て黒いベレーをかぶっている。プリントされた写真の、ほんの小さな面積に、左斜め後ろから写真家がとらえた彼のあごから頬骨にかけての白い肌だけが確認できる。

目を凝らしても、そこはぼやけていて不鮮明で、青年の相貌は確認できない。だが彼は、バラクラバをかぶっていなかった。

写真の下に掲示された作品説明は述べる。「訓練中のIRA(アイルランド共和軍)の兵士たち。北アイルランドないしアイルランド共和国のいずれかで撮影されたものだが、当時、岡村にはこれを発表する意思がなかった。1970年代」

東京・恵比寿の東京写真美術館で、9月23日まで開催されている「岡村昭彦の写真: 生きること死ぬことのすべて」。もっと早く行くつもりだったのだが、19日になってようやく行くことができた。月曜は休館なので、残すところ、20日、21日、23日だけ。開館時間は10時から18時。







40年、50年経過しても、「人間」を見ようとしている「ひとりの人間」の目線で見える武力行使・戦争の光景は、特に「爆弾を落とされる側」や「家から退去せざるをえなくされる側」からは、きっとあまり違いはないのだ。

それがリアルに伝わるのは、その時代には既にカラーフィルム、カラー印刷がある程度は一般的になっていて(LIFEの表紙!)、岡村昭彦という写真家が、カラーで記録し、残していてくれたからだ。そう、その光景の中にある色は今も変わっていない。仏教のあの五色の旗も、青い空と白い雲も、緑の草も、銀色の車も、国連支援物資の入った袋の色も、女の子の着ているミニのワンピの鮮やかな青色も、建物のレンガの色も。

岡村昭彦の軌跡は、われわれはどんな時代を生きているのかを鋭く問いかけ続けてきました。それは「日本」という枠組みを越えて、「世界史」のなかを日本人はいかに生きてゆくべきかを問いかけているといってもよいでしょう。本展では、残された原板にまで遡って調査研究された成果をもとに、未発表の写真を中心に、あらたにプリントを制作して展示を構成します。そこにはこれまで言われてきたようなフォトジャーナリストという言葉ではくくることのできない、岡村昭彦の思想と感情の軌跡が掘り起こされています。その集大成からは、人間の精神がカメラのレンズを通して、世界をどのように認識したかがあざやかに浮かび上がってくるはずです。
http://syabi.com/contents/exhibition/index-2242.html


以下、今書いてるところ。いくらなんでもそろそろアップしないと、20日ももう午後4時になろうとしているので書きかけのままアップする。

駅まで行く道すがらに花壇があって、季節ごとにいろんな花が咲いている。今はちょうど、彼岸花が盛りだ。その赤い花を、お母さんに手を引かれた女の子が目を丸くして、食い入るように見つめている。ちょうど目の高さに、あの不思議な構造をした花が咲いている。きっと、去年のこの季節は、この花はこの子の目線の上の方にあったのだろう。ここまで背が伸びて、そうして初めて見たのだろう。私もきっと、この年齢くらいのときは日々、新しいものを発見していたことだろう。そのころのことを記憶していられたら、どんなに楽しいだろう。

お母さんは彼女にこの花のことを説明している。でも、私にはその説明が理解できない。中国語だからだ。このあたりは、中国の人もフィリピンの人も、インドやネパールの人も、ブラジルや中東の人も、欧米の人も、けっこう住んでいる。注意していると、いろんな言葉を聞く。そのお母さんは、「ひがんばな、まんじゅしゃげ」とも言っていた。子供は多言語話者に育つのだろう。そこで信号が変わって、私は前進する。親子はまだ、彼岸花を見ている。

英語では、「クモユリ spider lily」などという。英語は徹底して、説明しdescribeするための言語で、名詞はいろいろとミもフタもない味気ないものが多い。「曼珠沙華」、「彼岸花」という名称に比べて「クモユリ」は何だかな……と思っていたけれど、あの子の目線ならきっとそう見えるのではないか。いつも見下ろしてばかりだったけれど、今度は同じ目線で見てみようか。

ビアフラで、岡村昭彦が撮影した写真の1枚は、暢気に生えているたくさんの種類の草の向こうの人影をとらえたものだ。ピントは草に合っていて、その向こうの人は空の白い光を背負って少しぼやけている。このとき、写真家の目はファインダーを覗いていたはずで、その目はきっと、人を見ようとしていたことだろう。写真家はきっと何枚か連写しただろう。「ナイジェリア軍の機関銃に胸を撃ち抜かれて倒れるビアフラ軍の兵士」と説明にある。1969年。

倒れそうな感じには見えない。そのまま、胸ポケットからタバコでも取り出して、写真家のほうに歩いてきて、「マッチ、持ってない?」と聞いてもおかしくない。そのくらいの生命感。そのくらいに、なんかありふれたような、暢気なふうな草。でもきっと、この人はこの1秒後か2秒後には倒れたのだ。機関銃に撃ち抜かれて、そしてどうなっただろうか。死んでしまっただろうか。病院に運ばれただろうか。写真はそういった「物語」は語らない。けれど、どうしようもなく胸に迫る。

写真家の目の高さで、こんな光景が見えていたということ。つまり、こんな光景があったのだということ。ビアフラという場所は、つまりナイジェリアの東部は、こんな植物が生えているのだということ。

バラクラバも着けずに射撃の訓練をしているIRAの青年が、「エメラルドの島」の緑色の中にいたように。

ビアフラの「胸を撃ち抜かれて倒れる兵士」の写真は、ロバート・キャパのあの有名な写真にたとえられたそうだ(「第二のキャパ」的なキャッチコピーがあったという)。でも全然違うと思う。

何ていうか、岡村のこの写真には「ドラマ」がないのだ。だから見たときにショックは受けないんだけど、じわじわと迫るものがある。写真だから当然、においは感じられないのだけれど、写真の正面に立って見てると草いきれが感じられてくるような。

五感で反応してしまうのである。「私の知っていること」が、自分の中で、反応したがる。

草原で射撃訓練をするIRAの写真の次、何点かの「ザ・トラブルズ」、つまり「紛争」の写真をはさみ、展示室の壁の90度の角をはさんだところから、あの「声」が聞こえてくる(頭の中だけで)。写真になっていてもものすごいオーラ。右手を上に差し伸べたオールバックの男。その腕の向こうに、彼を見上げている大勢の人々の顔の上半分が見える。胸にはアプレンティス・ボーイズ・オヴ・デリーの徽章。斜めにかけた白いたすきは紺色と赤で端と端をそれぞれ縁取られ、「Ulster 何とか Defence Committee」と、単語ごとに改行されたロゴが入っている(「何とか」と「Defence」の間には「アルスターの赤い手」のシンボルが入っている)。「何とか」の部分は、たすきがしわになっているため、写真では読み取れない。でも私は、それを知っているのだ。Ulster Constitution Defence Committee.
http://en.wikipedia.org/wiki/Ulster_Constitution_Defence_Committee

その数点向こうには、「ミニスカートのカストロ」ことバーナデット・デヴリンが人と話をしているのを至近距離から撮影した一枚。まだ大学生だった彼女は35歳くらいに見える。ほとんど寝ていなかったのだろう。お肌はぼろぼろでげっそりしている。でも目は輝いている。下に下げた右手の人差し指と中指にタバコを挟んでいる。このころデヴリンのカラー写真なんてあったんだ。




このツイートで「あんな写真」と書いているのが、本稿冒頭で述べたあの写真だ。

バラクラバをかぶっていない拳銃の青年のそばには、カメラに完全に背中と後頭部を向け、長い銃(ライフル銃)を持った青年が立っていて、彼もまたフードつきのアノラックのようなものを着て黒いベレーをかぶっている。彼らはきっと、あの甘くてべとべとする蜜がけのお菓子のような(『クライング・ゲーム』より)アクセントで話をするのだろう。子供は、weeをつけて呼ぶのだろう。

再度、以下書きかけ。

展示フロアに入ると、最初のほうの写真は見ている人が大勢いて、先に部屋の中央の陳列ケースに入れられている資料を見ておこうと思った。そこでいきなり、固まることになった。陳列ケースは2つあり、入り口に近いほうのケースには「米軍はいかにして、市民を監視しているか (How the U.S. Army spies on citizens)」、「ラオスからの撤退 (Retreat from Laos)」という文字が確認された。どちらも、あのLIFE誌の表紙だ。前者は1971年3月26日号、後者は1971年4月2日号で、前者は「ウォルター・クロンカイトに密着」(クロンカイトは米テレビのニュースの顔のようなキャスター)、後者は「高校生の妊娠」が表紙写真となっているメインの記事だ。下記URLで、ドロップダウンのメニューを操作して閲覧することができる。
http://akihiko.kazekusa.jp/official/?MENUINDEX=gallery

岡村の写真に特徴的なのは、「部分より全体」という切り取り方、つまり見せ方だ。下手をするとpointlessな、何を撮っているのかわからなくなるような写真。撃たれて倒れる兵士を、草むらと同等に示し、「見せたいドラマ」を強調しない。

そういう写真を、印画紙に焼き付けたものだけでなく掲載媒体でも見せるこの展示は、「その時代」を、岡村の写真を掲載した当時の世界一の媒体のひとつ、LIFEの実物(コピーではない)を通して見せてもいる。「全体」(といっても、それはLIFEの編集部が選んだ「現代の光景」という枠の中での「全体」である)の中の、1ページ、2ページ、3ページ。紙をめくれば違う「現実」が示されているのが、あの時代の「グラフ誌」だ。それが、表紙と岡村の写真のページだけ、陳列ケースの中にある。

そこで見せられるものは、「今」とあんまり区別がつかない。「米軍」ではなく「米諜報機関」が「市民」どころか「国連機関、外国の政府要人、世界中の人々」を監視している今、米国は10年前にうその言いがかりをつけて攻め込んだよその国に、いったん撤退したにも関わらずまた「軍事顧問団」を送り込んで、そうして「戦闘部隊は送っていない」というワードゲームで帳尻あわせをして国内世論をかわそうとしている。ドローン(無人機)で爆撃して「標的」を殺し、標的と一緒にいた人々も殺し、あるいはまったくの誤認で無関係な人々を殺し、人の家を破壊し、「殉教者」としてておいて、それを「戦争」と呼ぼうとしない。ジャーナリストも、それを真に受けてみせている。そしてさらに、新たな介入が準備されている。(イラクと「ドローン戦争」とシリアのことである。)

これは、何なのか。

私が展覧会に行った9月19日(金)は、「写真家から見た岡村昭彦の写真」という特別フロアレクチャーが行われていた。というか、それに合わせて出かけた。レクチャーを行うのは東京都写真美術館の学芸員、金子隆一さんと、写真家の中川道夫さん。お二人とも、今回の写真展の「中の人」で、岡村が残した5万点ものフィルムを調査・整理されたという。

岡村は、1964年6月12日のLIFEに写真が掲載されたことでいきなり世界的に名前が知られる存在となったという。「キャパを継ぐ男」という編集長のコメントつきで掲載されたのは、当時まだ始まったばかりであまり知られていなかったヴェトナム戦争の写真だ。"A little war, far away --- and very ugly" という見出しで特集されたそれらの写真は、知られていない「戦争の現実」(日本語では、「現実」というより「実相」という言葉が好まれるかもしれない)を示すものだった。下記URLをクリックしたときに最初に出てくるのが、この号のLIFEの画像だ。
http://akihiko.kazekusa.jp/official/?MENUINDEX=gallery

再度、以下書きかけ。(9月27日)

展示フロアに入ると、最初のほうの写真は見ている人が大勢いて、先に部屋の中央の陳列ケースに入れられている資料を見ておこうと思った。そこでいきなり、固まることになった。陳列ケースは2つあり、入り口に近いほうのケースには「米軍はいかにして、市民を監視しているか (How the U.S. Army spies on citizens)」、「ラオスからの撤退 (Retreat from Laos)」という文字が確認された。どちらも、あのLIFE誌の表紙だ。前者は1971年3月26日号、後者は1971年4月2日号で、前者は「ウォルター・クロンカイトに密着」(クロンカイトは米テレビのニュースの顔のようなキャスター)、後者は「高校生の妊娠」が表紙写真となっているメインの記事だ。
http://akihiko.kazekusa.jp/official/?MENUINDEX=gallery

岡村の写真に特徴的なのは、「部分より全体」という切り取り方、つまり見せ方だ。下手をするとpointlessな、何を撮っているのかわからなくなるような写真。撃たれて倒れる兵士を、草むらと同等に示す。写真のプリントだけでなく掲載媒体を見せるこの展示は、「その時代」を、岡村の写真を掲載した当時の世界一の媒体のひとつ、LIFEの実物(コピーではない)を通して見せてもいるのだが、そこで見せられるものは、「今」とあんまり区別がつかない。「米軍」ではなく「米諜報機関」が「市民」どころか「国連機関、外国の政府要人、世界中の人々」を監視している今、米国は10年前にうその言いがかりをつけて攻め込んだよその国に、いったん撤退したにも関わらずまた「軍事顧問団」を送り込んでいる。そうして「戦闘部隊は送っていない」という帳尻あわせをして国内世論をかわそうとしている。ドローン(無人機)で爆撃して「標的」を殺し、標的と一緒にいた人々も殺し、あるいはまったくの誤認で無関係な人々を殺し、人の家を破壊し、「殉教者」としてておいて、それを「戦争」と呼ぼうとしない。ジャーナリストも、それを真に受けてみせている。そしてさらに、新たな介入が準備されている。(イラクと「ドローン戦争」とシリアのことである。)

私が展覧会に行った9月19日(金)は、「写真家から見た岡村昭彦の写真」という特別フロアレクチャーが行われていた。というか、それに合わせて出かけた。レクチャーを行うのは東京都写真美術館の学芸員、金子隆一さんと、写真家の中川道夫さん。お二人とも、今回の写真展の「中の人」で、岡村が残した5万点ものフィルムを調査・整理されたという。

1929年生まれの岡村は、1968年からアイルランドを拠点とした。その関心は「植民地」というものに向けられていた。

会場に展示されていた、岡村の文章と写真が掲載された雑誌、『太陽』の1972年9月号。「小泉八雲とアイルランド」という4回連載の初回は、「ケルトの血と日本の風土」と題されている。

といっても、フロアレクチャーで金子さんか中川さんのどちらかがおっしゃっていたが、アイルランドにとって「ケルトの血」などというものは、「日本にとって『縄文の血』というようなもの」で、この雑誌の視線にはいわゆる「オリエンタリズム」が、それもとびきり濃厚なのが、びっしりと張り付いている。その中で岡村という人が、「アイルランド」をどう見たか。

その書き出しに圧倒された。「故ケネディ大統領が南ヴェトナムで開始した "核時代の実験戦争" の原因を、遠くアイルランドまで追究していった私が、『小泉八雲の生涯』に心をひかれたのは、彼もケネディの祖先たちと同じく、……19世紀のアイルランド人の一人であるからである」。

ケネディ大統領の暗殺を、私はまったく知らない。本の中、映画の中だけのことで、体験としてそれを持っていない。何かの折に聞いた親のコメントは、「テレビで中継された暗殺」、「翌日はその話題で持ちきり」。そして「アメリカの大統領なんていう偉い人でも、あんな死に方をする、くわばらくわばら」という何だか漠然とした「気の毒な人」の待遇。バブル経済期にリバイバルしていた60年代文化ブームでも、1963年に暗殺されたケネディは埒外で、ジミヘンとかの時代の前の「明るかったアメリカ」の象徴のような扱い(「ジミ・ヘンの米国歌演奏」のような政治的な行為についての解説でも、実際にベトナム戦争を始めたのは誰かは問われず、それを泥沼化させたのは誰かが問われていた)。WASPではない出自(ケネディはホワイトだが、アングロ・サクソンでもプロテスタントでもなく、アイリッシュのカトリックである)に「若くして暗殺された」という事実から、「なんとなく、いい者」というムードで語られ、もうちょっとまじめな検討を加えるにしても「キューバ危機で核戦争を未然に防いだ偉い人」のような結論付けがなされる。「彼が生きていれば、アメリカはあんなにならずにすんだ」という理想を、死んだ後に貼り付けられた悲劇の大統領。ただし、少しは真剣にアメリカ現代史をやろうとした(そしてうんざりしてしまった)私は、少しは知っている。ジョン・F・ケネディがそのような「理想的な人物」ではなかったことを。

それでも、JFKと100年近く離れている小泉八雲とを結びつけようという発想には驚いた。実際には、『太陽』の編集部から「岡村さん、アイルランドといえば小泉八雲ですから、何かお願いできませんか」と企画を相談されたのだろうと思うが……それとも当時は、私には想像もつかないくらいに濃厚に、「アイルランドといえばケネディ」という連想が一般の間にもあったのだろうか。

JFKというひとりのアイリッシュ・アメリカンを起点にアイルランドにアプローチすれば、そこにはきっと、JFKの前のWASPの大統領たちの多くの出自……Ulster Scots, すなわち「北アイルランドのスコットランド系プロテスタント」というアイデンティティも、無視できない何かとして存在しただろう。

『太陽』の陳列ケースから私は北アイルランドの写真が並んだ壁面に戻り、「あの声」の前に立ってみた。この人物の火のようなアジテーションを前に、「ベトナム戦争を始めたケネディ」がきっかけであの緑の島に関心を向け、実際に住んでしまった「戦前世代」の日本人は、何を感じただろう。何を見ただろう。

しばし写真を眺めてみたが、写真はそういったことは語らなかった。ただ、イアン・ペイズリーの周囲にあった熱、熱狂は伝わってきた。

デリーの「スラム」の街路を望む高層アパートのベランダに並べられた空き瓶の、冷え冷えとした物体感の写真が、その横にかけられていた。その横には、高いところから撮影された街路の火炎瓶バトルの写真。

バトル・オヴ・ボグサイド(1969年8月12日)。あれを目撃し、撮影していた日本人がいたなんて、というのが私の率直な感想だった。「日本人」云々というのは今の感覚ではナンセンスかもしれないが、1969年である。「海外」に行ける日本人は限られていた時代のことだ。そのときには既に岡村はアイルランドに引っ越していた。

フロアレクチャーでは言及されなかったかもしれないが(私は展示室内で加わったので、入り口前のイントロダクションを聞いていない)、展示会場の年譜によると、岡村は東京で、海軍将校の息子として生まれた。非常に裕福な、当時の上流階級のお坊ちゃんで、親戚には歴史に名を残す人が大勢いる。「終戦」のときには15歳、さぞ「軍国少年」だっただろう。家は原宿にあったそうだが、空襲で焼かれた。終戦で父親は公職追放された。昭彦少年は医学校に進んだが、そこで学費値上げ反対運動で演説して退学させられたという。

さぞや、声が大きかったのだろう。「仲間」には「たいした演説家」もいたことだろう。その彼は、イアン・ペイズリーをどう聞いただろうか。

金子さんは岡村昭彦について「いろんな意味で毀誉褒貶のある人」だと語った。私は今回の展覧会で初めてこのフォトジャーナリストのことを知ったので、この人がどういわれているのかは全く知らない。私の世代(小学校のときに田中角栄の物まねが流行った、しらけ鳥が飛んでいく、カラスの勝手の世代)は、実際、ベトナム戦争のことなど、「戦争の悲惨さ」という一般論に還元された「悲劇の物語」のほかは、ほとんど何も知らされずにきている(『ベトナムのダーちゃん』という本があった。枯葉剤の影響で身体がつながって生まれてきた双生児「ベトちゃん、ドクちゃん」のことはニュースになっていた。ボートピープルのニュースは毎日見た。でもそういうことだけだ)。「あのかわいそうな人たち」! この戦争についてわずかながら知っていることは、あとから映画や本などで知ったのだ。『プラトーン』、『グッドモーニング・ベトナム』のような作品や、あの悪趣味な映画『地獄の黙示録』、それらについて書かれた文章などで。

私は特にアジアのことに関心が高いわけではなく、ベトナム戦争についても知識量が著しく少ない。だから「私が知らないということ」は何も意味しないと思う。しかし、地雷を踏んで死んでしまった伝説的な日本人カメラマンのことは私ですら知ってる。ただしそれは「ベトナム戦争」として聞いてるのではなく「海外で高く評価された日本人」のこととして聞いている(このべったべたのナショナリズムにはうんざりだ)。岡村昭彦のような人(LIFEの表紙になってるような写真家)ならば、同じように「レジェンド」扱いされていてよさそうなものだが、実際にはいちいち「再評価」が必要な存在、半ば忘れられたような存在になっている。その理由が、「いろんな意味で毀誉褒貶のある人」という一筋縄ではいかなさそうな説明に込められているのだろう。

フロアレクチャーをしてくださった金子さん、中川さんは「団塊の世代」の人で(岡村より下の世代)、当時出版されベストセラーになった岡村の『南ヴェトナム従軍記』を「高校のときに岩波新書で読んだ」。「世代によって岡村がどういう人か、認識はさまざまあります」と金子さんは語っていた。写真家としては、名だたる写真家たちの間では岡村は「わかってない」だの「下手」だの、さんざんな言われようだったらしい。

でも岡村の写真は2014年の今見ると、とても「現代的」だと思う。(私からは、「人間の顔といえばクローズアップ」、「仰ぐ、ブラす」的な写真は、どうも「古臭く」見えてしまう。)

写真家の中川さんは、何度か岡村本人に会ったことがあり、「この人と付き合うと、従属するか、逃亡するかのどちらかだろうという印象」だったと、その「強力な個性」について語った。知遇を得たきっかけが、中川さんが何かのイベントで撮影を担当したことだというが、そのときに上方に腕を伸ばして写真を撮影した中川さんは岡村に呼びつけられ、「君はさっき、ファインダーを覗かずに撮影していたな。なぜそんなことをするんだ。それでは君が撮影したことにならない」と説教を食らったという。

今の、「ファインダー、何それ」みたいな構造の撮影機材を見たら、岡村は何と言うだろうか。(私が普段使っているコンデジには、ファインダーなんてものはついていない。モニターがあるだけだ。今の小学生は、「写真を撮る」という行為と、「カメラの端に片目を当てる」という行為の間に関連性を見ない。)

「日本人で、1960年代に海外に行けたということは、特権的な立場だった」とレクチャーのメモにある。さらに、媒体・報道機関に所属しないフリーランスのジャーナリストという立場に立ったのは、岡村の強さあってのことだったと。(フリーランス・ジャーナリストは今では当たり前だが、当時は特に写真家は、「フィルム代金を出すのは誰か」という問題だった。)

現在当たり前の「フリーランス・ジャーナリスト」も、「フォトジャーナリスト」も、この人は「最初にやった人たちのひとり」だった。会場の最後の小部屋に、白黒の写真が大量に、みっしりと壁にかけられた展示室があって(ほとんどウフィツィ美術館状態になってた)、そこに岡村が使っていたカメラや岡村自身を撮影した写真(ジャーナリスト同士が記念写真を撮る慣行があった)などが陳列ケースに入って並べられていた。万年筆で原稿用紙に書かれた手書きの原稿もあった。

私が瞠目したのは、大判の(B4判かA3判の)ノートに、英語と日本語が、壁にかけられた写真よりも濃い密度でみっしりと書かれたのを見たときだ。升目の印刷された原稿用紙では、マスの中にきちんと納まってまるっこい岡村の筆跡は、横書きだと縦長になって右に傾いて、とても几帳面な印象を与える。そんな筆跡で、アイルランドの歴史について、大きなノートにみっしりと、丁寧に書かれていた。

レクチャーの際、中川さんは「写真家はカメラを持っていない時間が多く、その時間の大半は調べものに費やしている」とおっしゃっていたが、このノートはまさに、そういうものだ。

そこにいる人々について、その土地について、その歴史について、写真が「記録」するということが可能であるかどうか。岡村の写真はそういう写真だという印象を非常に強く受けた。何かの《出来事》や《物語》を説明するというより、記録のための写真。Journalとしての写真。

会場の最後のほうに展示されていた、アイルランドでの人々の生活のちょっとした瞬間の写真を見ていてそう思った。ベルファストで、商店のショーウィンドーの前にいる子供。黒っぽい石壁と大勢の人の中の真っ白いウェディングドレス。キャプションを見てようやく「フォールズ・ロードか。カトリックの教会だな」とわかるものもあれば、「店の看板にロビンソン……プロテスタントだな」と写真だけでわかるものもある。ミニスカートの女の子がいる横の壁には、No Popeと書かれている。ペイズリー派の集会か。

「あてくしは、セイジなんていうきちゃないものには近寄りたくないんざんす」的な態度で「北アイルランド」を無視し、アイルランドを「現代人」の「失われた原風景」、「田舎」としか見ようとしなかった(わりに「語って」いやがる)司馬遼太郎が見ることすら拒否したアイルランドの光景は、司馬と "同じ日本人" によってこんなに見事に記録されていた。

そこで子供たちは交通警官の誘導で学校に通う(「緑のおばさん」的な光景)。そこで子供たちは、路上に倒れている「人」に寄ってたかって暴行を加えている……よく見れば、「生命を失った人」のように見えるそれは「最初から生命のない人形」だ。デリー、というよりロンドンデリーでの「裏切り者ランディ」。ああ、これもまた、セクタリアンな光景だ。

その同じ壁に、同じころの「アイルランドの田舎」の光景。トラックから子牛が顔を覗かせ、女の子が誘導している。画面の左横では年配の男性2人が背中を向けて話をしている。カメラに顔を向けているのは子牛ちゃんだけだ。遠目では、20世紀前半の風俗画だと言われても信じてしまいそうな光景。「現代的」な女の子の青いミニのワンピを見て、1960年代以降だとようやく気づく。

この写真が、展覧会のポスターとして使われていた。(下記2点はそのポスターを撮影したもの。美術館入り口脇にて。)

東京都写真美術館(岡村昭彦展)

「岡村昭彦の写真」展覧会、ポスター

展示室の同じ壁に、引きで撮影されたコントラストの強い写真の中、赤い色が浮かんでいる。キャプションには「春の短い期間だけ実をつける野いちごが店頭にあふれる。ウィックロー州、アイルランド共和国、1977年」。

レクチャーで、中川さんか金子さんのどちらかは書き取り損ねたが、「岡村の写真には食べ物がよく出てくる」と説明があった。今回の写真展では、あまり見なかった。写真展のために整理したフィルムは5万点もあったという。きっとそれらの中には、その時代のいろんな人々の食べ物が淡々と記録されているのだろう。

いつか、見る日が来るだろうか。

岡村が住んでいたのは、アイルランド共和国のウィックロー州アヴォカの家で、その家の前の道の路面を撮影した写真の前で、中川さんは「岡村の住んでいたこの家の近くにガラスを廃棄する施設があって、岡村はそこできらきらしたきれいなかけらを拾ってくるのが好きだった」というエピソードを話していらした。

その写真は、雪のあとの路面のようで、この写真展のどこにも、捨てられたガラスのきらきらするかけらの写真はなかったけれども、写真の中で、人々は生きてきらきらしている。人間だけでなく植物や動物も。

そういった、「生命」の写真と強烈なコントラストをなすのが、会場の最初のほうにあった南ベトナムでの写真の中の数点だ。「1965年3月30日午前10時50分(現地時間)、アメリカ大使館の脇につけられた車が爆発した。ベトナム人10名以上、アメリカ人2名ほかが死亡し、180名以上が負傷した。サイゴン、南ベトナム、1965年」というキャプション。黒くすすけた何かの破片の中、血まみれの人が2人倒れている。もう生命はそこにはなかろう。標的とされた大使館の室内、割れた窓ガラスの前にかかっているカーテンが明るい日差しに透けていて、奇妙に静かで美しい。

ガラスのかけらは、ここでもきらきらしていたことだろう。

書きたいことを書こうとするといつまで経ってもアップできないので、いったん、ここまで。まだ、時間が必要なようだ。着地点は見えているんだけど、たどり着けない。

再度、以下書きかけ。

岡村昭彦という写真家については、これから、改めて紹介が始まるという段階のようだ。図録は展覧会の会場だけでなく一般の書店でも、オンライン書店でも買える。

4568104807岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて all about life and death
岡村昭彦
美術出版社 2014-07-30

by G-Tools


うん、アイルランドには、全部あるんだよね。

※この記事は

2014年09月20日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 15:51 | TrackBack(1) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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「わたしはいつでも、人々が威厳を保っているようすを見せようとしてきた」(セバスチャン・サルガド)
Excerpt: 16世紀にポルトガル人がやってきたとき、ブラジルの海沿い3500キロは、内陸に向かって約350キロ拡がる大西洋岸森林に覆われていた。面積にしてフランスの2倍に当たる。わたしの両親の土地はこの生態系に属..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2016-01-15 17:15

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼