「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2014年09月19日

スコットランドの「独立」可否を問うレファレンダムの投票が進むなか、Twitterを見てやさぐれる。

というわけで、9月18日、「スコットランド独立」の可否を問うレファレンダム(住民投票)が行なわれている。この日のスコットランドおよびUK全域の新聞各紙一面などを含め、「その日」のムードを少しでも記録しておこうとしたのが下記である。

スコットランドは「独立」するのか、「連合」に残るのか? ついに運命の投票日(2014年9月18日)
http://matome.naver.jp/odai/2141103213080105301




日本時間で19日午前3時(現地では18日午後7時)現在、まさに投票が行なわれている。結果は19日に判明する見込みで、時差が8時間ある日本でも、19日中には結果がわかると思われる。ただし開票と集計の作業に手間取った場合は土曜日以降になるかもしれない(別にコメディランド的なことが起こらなくても、「票の数え直し」ということはよくある。特に「僅差」の場合はそうだ)。結果判明の目安として示されているのは下記の通り。



Twitterではこのレファレンダムについては #indyref というハッシュタグが使われてきた(Independence Referendumの略)が、投票当日になって #ScotlandDecides と #VoteYesScotland, #VoteNoScotland が #indyref に代わって出てきた。


それらのハッシュタグを見ていれば、非常に民主的で実りの多い今回のこのディベート(スコットランドの人たちはどれほど真剣に考え、言葉を交わし、熱意を伝え、理性を強調し、希望を語り、現実を見て、考えをまとめたことだろうか)についての心からの賞賛でほんわかほかほかしていられるのかもしれない。

実際、私はそのつもりだった。

しかし投票前日、というより数時間前になって突然「No陣営(連合支持派、独立反対派)のやり口に閉口したので翻意した。独立にYesだ」とTwitterで宣言したスターが現れて(そこまではいいんだ)、それに対し、「われらこそブリテン」面をしている「イングランド」からのくだらない、それこそ「ソーシャルネット」がダメになった100の理由としてまとめられそうなくらいにダメな「通りすがり」の反応を見てしまい、結局、いらいらしている。

イングランドの最もいやな面を拡大鏡で見ているような、そんな感じ。

それも「まとめ」に入れてある。3ページ目ね。
http://matome.naver.jp/odai/2141103213080105301?page=3

とにかく、アンディ・マレーに対して「ダンブレーン事件で死んでればよかったのに」と言うのは一線を越えている。

そしてそれ以前に、anti-Britishなる概念が当たり前に語られるようになっているこのウェブ空間。

10年前のイラク戦争のときはアメリカがやたらとanti-American云々といっては人の言論を封じようとしていた一方で、anti-Britishといのはほとんど見かけなかった。私は少し調べてみたのだが、当時、ウェブ検索でひっかかるそれの用例は、歴史的なもの(アイルランド、インド、中東、エジプトなどでの植民地支配への抵抗運動の文脈)か、北アイルランド紛争関連のものだった。

それが今、非常にカジュアルに、「スコットランドの独立(自立)」というただの「政治的意見」を表明したスポーツ選手に向けられている。

しかもそれを、大手メディア(デイリー・テレグラフ)が煽っている。

映画Children of Menの冒頭で描かれた英国の自己愛というか、Only Britain Soldiers On的な世界観と、それのもたらしたディストピアは、確実に、あんなにスタイリッシュではない形で現実になっている。

UKIPがメジャーな政党になったって、別に驚きじゃない。お似合いだよ。

さて、「スコットランド独立」が「UKの全国ニュース」としてまともに扱われるようになったのは、投票のわずか2週間前だった。それは急に来た「パニック」だった。


下記のようになっていると、「パニック」具合がより鮮明だ。



「スコットランド独立」になんて、それまではロンドンでは関心が示されなかった。2週間前になってからデイリー・ミラーに「スコットランドの外にいても、スコットランド独立問題は大事」みたいな記事が出ているが、有権者登録が締め切られた(9月2日)あとに出るような内容ではない(しかもその記事、レファレンダム推進派の出したホワイトペーパーなどは見てもいない。「恐怖」を煽る学者のコメントだけを連ねている)。

実はこれまで世論調査では、ほぼ一貫してNo (独立反対、連合維持) がYes (独立賛成) を上回ってきた(BBCのサイトに世論調査結果のまとめのページで誰でも確認できる)。ウエストミンスターの主要政党はもちろん、メジャーなメディアも大手企業も、みんな「No陣営」(独立反対、連合維持)。そのNo陣営は資金力も政治力もありあまるほどある。だからある意味楽観的な、「結果なんか見なくたってわかってるよ」というムードが漂っていた。いわば、2010年総選挙で一瞬だけ盛り上がった「選挙制度改革(小選挙区制などという前近代的な制度からの脱却)」という課題についてのレファレンダムと同じような扱いだった。

ぶっちゃけ、ウエストミンスターは「スコットランド独立」などというunthinkableは「一部の過激派」が騒いでいるだけ(「適当にガス抜きさせておけばいいんじゃないかな」)程度に見てきたわけだ。

それが、投票まで2週間を切った段階で "finally take it seriously" という状態になったのは、これまで「ありえないこと、可能性はゼロ」と思われていたことが、「ひょっとしたらあるかもしれない」というレベルになったからだ。(今回のテニスの全米オープン男子シングルスでも、大会開始時は誰が錦織圭が決勝に進むと思っていただろうか。「ひょっとしたら決勝に行くんじゃないか」的な「期待」が出て、メディアでの扱いが大きくなったのは、4強以降、早くとも8強以降だっただろう。そういうことが政治ニュースでも起きている。)

2週間前になって、(いくつもある世論調査のなかのひとつで)YesがNoをわずかにでも上回るという結果が出た。





こないだまで「4対6、いや、3対7に近い」とタカをくくっていたのに、「51対49」という数値が出るほどに両派拮抗してきた状況に、ウエストミンスター(ロンドン)は「パニック・モード」になってしまったらしい。No陣営を率いている労働党のトップは、「スコットランドが独立したら、国境(英語では国境であれ県境であれ州境であれborderといい、その語自体には『国』であるかどうかは関係ないが)に警備隊を置くことになるのか」というスコットランド版のメイル・オン・サンデーの釣り質問に、何を血迷ったのか、「それも検討せねばならなくなるだろう」とかいう発言をして、彼がこれまで「スコットランド」をまじめに考えてこなかったということを露呈してしまった(独立派はボーダーの封鎖は考えていない。イングランドが一方的に封鎖したら、それはロンドンの判断でしかない)。ここまでものすごいshoot themselves in the foot事案は珍しい。

そこらへんのことは、別に「まとめ」てある。

スコットランドの「独立」、Yes or No? 投票直前で盛り上がってきました!
http://matome.naver.jp/odai/2141006655528101401


と、ここらへんは塩漬けになってた下書きを復活させたものだ。本当はもっといろいろ記録して、いろいろ書きたかったのだが、イアン・ペイズリーが死んでしまうという予想外のことがあって、完全にオーバーロードしてしまった。無念である。

が、Braveheartの Freeeeeeeeeeeeedooooom! がアイルランドではやはり来るのだということは確認できたし(あの映画、史実がかなりデタラメで、スコットランドでは評判がよくないという)、Free Derry CornerはFree Scotlandを祝い、ボグサイドにSt Andrews Flagがはためくという変な光景が実現したようで、やっぱりあたしのアイドルはアイルランドだ、癒される〜♪

ところで夏に流行った「氷バケツ」、Derry ice bucketで検索するとあいあーるえーごっこも見られます。バラクラバに迷彩に(水)鉄砲。昔ならそんなおちょくるみたいなことははばかられたんじゃないだろうか。和平プロセス和平プロセス。ほっほ。

※この記事は

2014年09月19日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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