「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2014年09月16日

「北アイルランド紛争の反省から、北アイルランド、スコットランド、ウェールズ各地方の未来は住民の意思に委ねることにした」のではないはずですが。

「英国」と呼ばれる例の「連合王国」において、4つの「ネイション」のうちイングランドを除く3つのネイションの「(ウエストミンスターからの)独立の気運」もしくは「自治」への気持ちは常にあったが、実際には「独立」が取りざたされることはほとんどなく、日本語では「自治の拡大」について「地方分権」として語られてきた。ウェールズ議会、スコットランド議会などについては英語でいうときもdevolutionだ。

英国(グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国)は、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つのnationで構成されている連合国家である(が、「連邦 federation」ではない)。イングランドは「支配者」なので別だが、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドはそれぞれに「イングランド(政治の中心はウエストミンスター)とは別」という "ナショナリズム" を持っている。それがわかりやすく現れるのがサッカーやラグビーなど、4つの「ネイション」ごとに協会が組織されているスポーツの「国際」試合だ。

先日、超笑える「お蔵入りCM」があったのでここで見ておこう。回ってきた経路も非常に味わい深いのでそのままで。

最後の「微妙な空気→笑い」への流れ、「仲良し集団だが実はそれぞれ意見はばらばら」というのがこのCMを最高の「社会批評」にしているのだが、そこまでが強烈すぎたのか、実際には放映されなかったそうだ。(なお、ツイートにある "RG" はアダムズの側近というか秘書的な人で、いつも一緒にいることはジェリーさん衝撃のTwitterデビューのときに語られている。ただしRG氏本人はめったに出てこない。)

このカジュアルな「反イングランド」の意識は、日本語圏では「郷土愛」的な説明がなされてきたと思うが、たぶんそんなものではない。といっても、私自身日本では愛知出身で東京で育っているわけで、つまり徳川家康以降の「政府側」そのものの価値観で描かれた「歴史、郷土史」しか知らないから、よくわかってないかもしれない(例えば、会津での意識などはわからない)。先日も、「スコットランド独立賛成」が「反対(連合維持)」を上回るという世論調査結果が出て労働党がパニクったときにスコットランドに乗り込んだ「イングランドの政治家」のひとり(しかもhas-been)であるジョン・プレスコット(労働党)が、「イングランドとスコットランドが合同でサッカー代表チームを組織すれば、ドイツにも勝てる!」とかいう安いナショナリズムに訴えようとしてすべり、労働党支持者ですら反応に困るという出来事があった(実際、2012年ロンドン五輪の際、サッカーのTeam Britainにはスコットランドは参加を拒否した)のだが、スコットランドの「ナショナリズム」は「団結して、外敵に立ち向かうぞ!」というものであるより、「反イングランド」というか「俺たちはイングランドではない」というものである部分のほうが大きかろう。

北アイルランドの「ナショナリズム」はまたこれとは違うのだが……というところで、先ほどのこのやり取りの件。






提示されている木村正人さんの記事は、現在、Yahoo! の「個人ニュース」の「国際」でアクセスランキング1位になっているのだが、私は拝読して、データの部分や引用の部分は除き、「意見はいろいろある」という印象だった(「ナショナリズム」をどう理解され、どう定義されているのかが私にはわからなかった)のだが、それはさておき、杉本さんご提示の疑問の箇所である。

英国では3千人以上の犠牲者を出した北アイルランド紛争の反省から、北アイルランド、スコットランド、ウェールズ各地方の未来はそれぞれの地方の住民の意思に委ねることにした。

独立の是非を、「武器と流血」ではなく、「投票」という民主主義で決めるという信念は潔き良く、称賛に値する。しかし、グローバリゼーションの反動として民族主義が世界各地で覚醒する中、スコットランドの熱狂は予測不能な波紋と混乱を広げる恐れがある。


厳密には、1997年の総選挙での労働党のマニフェストを読み直さなければならないのだが、太字にした部分は、No, no, no(マーガレット・サッチャーの引用)だろう。そもそもここで「地方」となっているあたりに日本語の限界というか、英語との違いが出てきているようにも思うのだが、そこまでは本稿では扱わない。

まず、「各地方の未来はそれぞれの地方の住民の意思に委ねる」という決定をしたという事実があったのかどうか。「住民の意思に委ね」られるような「未来」というと、"constitutional problems/issues" と呼ばれる件、すなわち「帰属」のことではないかというのは、北アイルランド脳の恐怖だろうか。
At the heart of the Agreement is the recognition by both governments that Northern Ireland remains part of the UK until a majority of its people decide otherwise. Moreover, the UK and the Republic agreed "that it is for the people of the island of Ireland alone, by agreement between the two parts respectively and without external impediment, to exercise their right of self-determination on the basis of consent, freely and concurrently given, north and south, to bring about a united Ireland, if that is their wish, accepting that this right must be achieved and exercised with and subject to the agreement and consent of a majority of the people of Northern Ireland."

http://www.bbc.co.uk/northernireland/schools/agreement/constitutional/constitutional1.shtml


少なくとも、ウェールズについては私はそれは知らない(PCって今、独立論唱えてましたっけ。調べろって思うけど)。ウェールズの自治議会の権限は、ぶっちゃけ「県議会」レベルのはずだ(雑な記述→英国は地方自治体の「行政の長」という考え方が1997年までは非常に弱く、ロンドンの行政の長、すなわち「ロンドン市長」も2000年にようやく導入された←雑な記述)。スコットランドの今回のも、北アイルランド紛争云々はまったく関係なく、前回のスコットランド自治議会でSNPが単独過半数を取ったことによって出てきたもので、スコットランドでは70年代以来のものだ。

そこらへんのことは、先に作成した「まとめ」に書いてあるのだが、リンクしておいても読まれやしないので、こっちにもコピペしておこう。

非常にざっくり説明すると、その「ブレア政権下での地方分権の推進」の中で創設されたのが、スコットランド議会 the Scottish Parliament である。

1997年5月の総選挙で、トニー・ブレア率いる労働党が圧勝して、マーガレット・サッチャー、ジョン・メイジャーと1979年から2代にわたった保守党から政権を奪った。このとき労働党がマニフェストに含めていた重要なポイントのひとつが「スコットランドの自治」に関するものだった。つまり、スコットランドのことは、ロンドンのウエストミンスターの議会(英国会)で決めるのではなく、スコットランド内のどこかに議会を置いて、そこで決めようじゃないか、という方針だ。

そして1997年9月11日、その「議会設置の可否」を問うレファレンダム(スコットランドの人々による「住民投票」)が実施され、「スコットランド議会(立法府)を設置する」、「スコットランド議会は課税権を有する」の2つの設問について、どちらもYesという結果を得て設立されたのが、現在の「スコットランド議会」である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Scottish_devolution_referendum,_1997

1960年代から70年代にかけて、英国(と一般的に呼ばれるあの「連合王国」)では、上述の「ネイション」のそれぞれでナショナリズムが盛り上がった。「支配者」たるイングランドでは方向性が別だったが、ほかは基本的にいずれも「民族自決」を求めるナショナリズムだ。「*ピー*」においては「アルスター・ナショナリズム対アイリッシュ・ナショナリズム」が武力衝突して英軍の介入後は「泥沼」になっていった。ウェールズでも武装闘争主義を掲げる集団が勃興し、スコットランドは「北海油田で経済的に自立できるんじゃないか」というムードが盛り上がった。

そのいずれでも「言語復興運動」がおこり、その後ウェールズ語は「死滅言語」状態だったのが公用語化され、スコットランド語(英語のスコットランド弁とも、スコットランドのゲール語とも違う、英語系の言語)は「ひとつの言語」としてのステータスを得た。ただし「*ピー*」におけるその話(言語法制定)は(ややこしいので詳細は割愛するが)15年以上かかってまだ同じところでせめぎあいが続いている状態だ。

「*ピー*」は別として、ウェールズでもスコットランドでも、その時代のナショナリズムの勃興は、1979年に発足した保守党のサッチャー政権下では(完全に消えることはなかったにせよ)表立っては継続しなかったといえる。それが本格的に復活したのが、1997年の労働党の政権奪還だった。

当時のことを、翻訳者の杉本優さん(@yunod)が次のように書いておられる。

イギリス国土の北部3分の1を占め、「中央」たる南イングランドからは最も離れたスコットランドでは、やはり労働党は圧倒的に強い。どのくらい強いかというと、世論調査では常時50%前後の支持率を確保し、改選前の保守党政権の時代でも、72ある議席中48議席を占めていた。与党だった保守党はというと、10議席だ。

しかも、マーガレット・サッチャーが保守党の鉄の女王として君臨し、イングランドで圧倒的な支持を誇っていた頃にはこの差はもっと大きくて、労働党50議席に対し、保守党はわずか7議席しか持っていなかった。

……(スコットランドでマーガレット・サッチャーは)世論調査では不支持率が80〜90%という前代未聞のレベルに達したほど、歴代首相の中でもかつてないきらわれ者だったのだ。

 ジョン・メージャーはサッチャーのような極端な憎まれ方こそしていなかったが、人気がないことに変わりはない。不人気の首相率いる弱小政党がスコットランド大臣を出し、スコットランド省を組織し、スコットランドの行政を掌握する。スコットランド人がこれを喜ぶはずがない。
http://www.scotlandjoho.com/fu05050.html


……自治議会構想は20年も前からスコットランド政治の重要な争点だったのであり、多くの(30代後半以上の)スコットランド人にとって、1997年の住民投票はいわば「1979年の敗者復活戦」だったのである。

 1979年も、スコットランド自治議会の是非を問う住民投票が実施された年である。そのときも結果は自治支持票数が不支持を上回ったのだが、可決条件として「全有権者の40%の支持を得ること」というきびしい但し書きがついていたため、議会設立には至らなかった。住民投票を提議した労働党政府は、この敗北の結果不信任動議にさらされ、政権から追い落とされた。そして、それに続いた総選挙で誕生したのが、自治反対勢力のリーダーであるマーガレット・サッチャーの保守党政権だった。
http://www.scotlandjoho.com/fu05060.html


……

こうして1997年9月11日の「自治議会設置可否」、「自治議会の課税権の可否」のレファレンダムで、2項目とも「可」の結果が出たことを受けて設立されたスコットランド議会は、1999年に初の選挙を行なった。

……

議会の定数は129で、第一回選挙は1999年に実施された。このとき第一党は労働党(56議席)、第二党はSNP(35議席)だった。続く2003年の第二回の選挙でも第一党、第二党は同じ。

SNPが第一党になったのは3回目の2007年の選挙で、このときは労働党をわずかに1議席しのぐ47議席を獲得。そしてその次の2011年の選挙でSNPが単独過半数を獲得(69議席)したことが、「独立」論を再燃させた。

※ソースは下記、およびそのリンク先。
http://en.wikipedia.org/wiki/Scottish_Parliament#Elections

2011年のいわゆる「アラブの春」やそれに触発された世界各地でのデモなどで「現状を打破する」ことについてのポジティヴなムードがあふれるなか、準備作業が進められて、2013年3月に、1年半後の2014年9月にレファレンダムを実施することが、スコットランド自治政府によって宣言された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Scottish_independence_referendum,_2014

ここにある「ブレアの地方分権」は、2000年くらいまでの日本の新聞記事では、ものっすごい斬新なアイディアであるかのように称揚されていたはずだ。「第三の道」、「オリーヴの枝」(だっけ?)、「市民運動のうねりを政治の中枢に」みたいなやつ。そのころ、私はロンドンで取材してたのだが、実際には、みんなぬるい感じの反応だった。

こんな話をしてると終わらないので先に行く。

で、問題の「3千人以上の犠牲者を出した北アイルランド紛争の反省から、北アイルランド……の未来はそれぞれの地方の住民の意思に委ねることにした」だが、これは事実として正しくない。「北アイルランドの自治」は、紛争後にできたものではないからだ。

アイルランドが南北に分断されたそのときから、北アイルランドは「自治」である。

アイルランドが南の26州と北の6州に分かたれたのは、1920年の「アイルランド統治法」による。このときに、南北とも「自治」、すなわちウエストミンスターは統治しないことが規定されている(南はダブリンに、北はベルファストに行政の中心が置かれ、相互には関わらない)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Government_of_Ireland_Act_1920

The Act divided Ireland into two territories, Southern Ireland and Northern Ireland, each intended to be self-governing ...


こうして1921年6月に、「北アイルランド議会 The Parliament of Northern Ireland」が成立した。これが、1972年3月30日まで続いた「北アイルランド自治議会」である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_Northern_Ireland

というか、なぜこの議会が1972年3月30日までしか続かなかったのかという点から説明をすべきだろうが、話が長くなっていつまでも書き終わらないのでそこははしょる。要は、この自治議会は、「カトリック」に対して差別政策をとっていたのである。「白いニグロ」と位置づけられた「アイルランド人、アイリッシュ」は「二級市民」の扱いを受けていた。そのことは先日も書いた通り

この状況に、「カトリック」の人たち(をはじめとする多くの人々)が抗議の声を上げ、「公民権運動」を開始したのだが、それを「体制」(自治議会、自治政府)の側が民兵を動員して弾圧&「プロテスタント」の「自警団活動」も活発化し「カトリック」への暴力が激化→「カトリック」の側の昔の武装勢力、IRAが息を吹き返す→双方でえらいことに→「中立の調停者」として英軍投入(1969年)→……のはずが、英軍は「中立」なんかじゃなかったぴょん→英軍はベルファストで13人殺す(1969年8月、バリーマーフィー事件)→英軍はデリーで13人殺す(1972年1月、ブラディ・サンデー事件)→「俺もIRAに入って、不正義と戦う。打倒英軍、英国の支配からの離脱、英国人は出て行け、Brits out!」という若者急増、IRAうはうは……というのが、「北アイルランド紛争」の初期の流れ(ただしとても大雑把)だ。

このときに「紛争の激化」というか「事態の軍事化」を止めるどころか悪化させたのが、当時の北アイルランドの自治議会(と、自治政府)で、そのために1972年3月30日に「北アイルランドの自治」は停止された。

以降、その「自治」を回復させようと、英国政府は手を尽くした。アイルランド共和国政府も、関わり方は時代によって変遷したが、それに尽力した。そして、何か出ればそのたびに "NO" と言ってブチ壊して回っていたのが、先週金曜日に亡くなったイアン・ペイズリーだ。宗教原理主義者の彼は、1ミリたりとも「カトリック」に譲歩するのは間違いと信じていた。ほんの少しでも「カトリック」を「北アイルランド」の統治に関わらせるべきではないという極論だ(しかしこれは徐々に変化はする)。

で、話をはしょるが、ペイズリー(と彼の政党であるDUP)を抜きに成立したのが、1998年のグッドフライデー合意(GFA)で、それによって導入された「北アイルランドの自治」が、現在の「北アイルランド自治議会 The Northern Ireland Assembly」である。

1972年に停止されたのはParliament, 1998年のGFAで成立したのがAssemblyであるが、日本語圏ではウィキペディアでも「北アイルランド議会」と一括していて両者区別してないみたい(これは大問題だと思う)。

……ということです。つまり、北アイルランドの自治は「紛争を教訓に新たに導入された」ものでは全然なくて、「紛争で一時停止されていたものが、内容を刷新して復興された」ものです。

この一連の流れは、CAINのページのリストがわかりやすいかと。
http://cain.ulst.ac.uk/othelem/chron.htm
Civil Rights Campaign (1964-1972) 公民権運動
Derry March (5 October 1968) 公民権運動
People's Democracy March (1-4 January 1969) 公民権運動
Internment (1971-1975) 当時の自治政府(対「カトリック」強硬派)の失策
'Bloody Sunday' (30 January 1972) このあと「自治」停止
'Bloody Friday' (21 July 1972)
Sunningdale Agreement (1973-1974) パワーシェアリングでの自治の回復
Ulster Workers' Council strike (May 1974) イアン・ペイズリーのNOで大量動員
The Dublin and Monaghan Bombs (17 May 1974)
IRA Truce (9 February 1975 to 23 January 1976)
Northern Ireland Constitutional Convention (July 1974 to March 1976)
United Unionist Action Council (UUAC) Strike (1977)
Hunger Strike (1981)
Anglo-Irish Agreement (15 November 1985) サッチャー政権下での進展
Brooke / Mayhew Talks (April 1991 to November 1992)
Events leading up to the Peace Process (1988-1993)
Events during the Peace Process (1993-1998) メイジャー政権〜ブレア政権下での進展
Events during the Peace Process (1998-1999) 「自治議会」の復活


そして、結局、1998年に復活した自治議会は、2002年にまたポシャって(これが「議会内にIRAのスパイがいる」という疑惑で、その疑惑の中心人物があのデニス・ドナルドソン。みなさま、北アイルランドという魔界へようこそ)、2006年のセント・アンドルーズ合意でついにイアン・ペイズリーがYESと言ったことで、2007年に再起動した。

以上です。

本稿が役に立ったと思ったら、堀越先生や鈴木先生の本を買って読みましょう。

4846000354北アイルランド紛争の歴史
堀越 智
論創社 1996-08

by G-Tools

4882024616IRA(アイルランド共和国軍)―アイルランドのナショナリズム
鈴木 良平
彩流社 1999-02

by G-Tools


ところで。

先日、イアン・ペイズリーが亡くなったときに、ジェリー・アダムズがガーディアンのCiFに寄稿して次のように書いていた。ペイズリーも「ロンドンにあれこれ指図されるのはイヤだ」という人で、それゆえ、ユニオニストの主流派(UUP)とは衝突したし、軋轢もあった。
ペイズリーとマクギネスがペアとしてうまくやっていけたことは広く知られている通りだ。ペイズリーはユニオニストのままだったし、マクギネスはリパブリカンのままだった。双方が、互いに共通の目的を見つけることのできる場を作り出したのは、ペイズリーの尽力と、マクギネスの忍耐あってのことだった。

ペイズリーは、新たな体制を受け入れた。マクギネスとの最初の会合において、ペイズリーは「イングランドの人間に統治していただかんでもよろしいのです。私らだけでできますからな」と宣言した。

これを、シン・フェインの機関紙、An Phoblachtがやたらと強調している。


私はそれについて「わかりづらいパスを」と述べているのだが、それはシン・フェインが一貫して、今回の「スコットランド独立可否のレファレンダム」では「意見、見解」すら表明しないことにしているからだ。



シン・フェインのわかりづらいパスはこれだけではない。カタルーニャのnational dayにかこつけて、こんなパフォーマンスもしている。



かつて、シン・フェインは「(ウエストミンスターからの)独立」という争点で、SNPのアレックス・サモンドら独立派のグループ(79 Group)とつながっていたか、つながろうとしていたことがある。ウィキペディアによると、1979年(そう、マーガレット・サッチャーが首相になったとき)に結成されたこのSNP党内のグループは、当時の「独立論」(ナショナリズム)の追い風を受けていたが、1982年にシン・フェイン(当時は「イコール、IRA」と認識されていた)の年次党大会に招待されていたことがばれて、勢いをそがれたそうだ。つい先日、私はこのウィキペディアのページの存在を初めて知り、今まで読んでなかったのを後悔したのだが、読んでない方はぜひ(記述が学位論文の一部のように一貫していて情報量、ソースも豊富である)。

※この記事は

2014年09月16日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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