「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2014年09月11日

スコットランドの「独立」をめぐる「論争」と、「北アイルランド紛争」は、何がどう違うか。

スコットランドの「独立」の可否を問うレファレンダム(住民投票)が、いよいよ1週間後の9月18日(木)に迫った。

このレファレンダムが行なわれるようになった経緯などは別途書いている最中だが(当ブログにおける「塩漬け」フラグw)、その前に少しだけ。というのも、この件についてのYes, No両陣営の発言や報道を記録した「まとめ」について、「独立を煽っている」と思われたのか、「スコットランド在住の私は不快だ」とか「北アイルランドでは住民の対立が何を招いたか」とか、途方もないことを言われてしまったので、整理しておく必要を感じたから。こんなことをいちいち書かねばならないのだとしたら、それは実際いささかばかばかしいのだが、nationalismという言葉に慣れていない人には、スコットランド独立反対派のやってる恐怖煽動キャンペーンで語られていることがめちゃくちゃ恐ろしく見えていても不思議ではない。(日本語で報道やキャンペーンの「まとめ」を作られたらYes陣営が勢いづく、とまで不安に感じているのなら、心理の専門家に相談したほうがいいですよ。)

まず、現在のスコットランドでの「論争」と、北アイルランドで武力紛争を招いた「対立構造」とは、まるっきり別ものである。

現在、スコットランドで行なわれているのは、平和的で民主的な「論争」である。スコットランドで生まれ育ち、スコットランドを拠点としているジャーナリスト、ヒューゴ・リフキン(保守党のマルコム・リフキン議員の息子さんだが、そのことはここではあんまり関係ない)が次のように述べている通りだ。




いかに激しく対立しているように見えているとしても、スコットランドの「論争」は武力を背景にしたものではない。構造的差別を背景にしたものでもない。北アイルランドとはまったく異なる。あるいは現在のウクライナや、90年代の旧ユーゴとも異なる。重なるのはおそらくスペインのカタルーニャ独立運動だろう。

実際、今日は在スペインのBBC記者から、スコットランドでの盛り上がりがカタルーニャ独立運動にどう影響しているかという報告が入っている。




1960年代末、北アイルランドで何が起きたかというと――そしてその前段階として、「アイルランド」に対し「イングランド」や「ブリテン」によって何が行なわれたかというと――、こういうことだ。


※アイルランドがどう描かれていたか、ご存じない方は下記を。本当に、ひどいんです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Anti-Irish_sentiment







このことは私はもう何度も何度も書いてきたし、2013年1月に次のようなページを作成してある。

2013年、41年目の「ブラディ・サンデー」に、「公民権」という言葉を手掛かりに。
http://matome.naver.jp/odai/2135935212510473301


上記「まとめ」に含めてあるのだが、堀越智『アイルランドの反乱: 白いニグロは叫ぶ』、1970年、三省堂、14 - 15ページからの引用:
北アイルランド議会では、普通選挙権に加えて、国立大学の卒業者がもつユニバーシティ・ヴォートと企業主がもつビズネス・ヴォートがあり、企業主は財産高に応じ、最高6票までもつことができる。地方議会では普通選挙権がなくなり、世帯主とその配偶者の選挙権と、ビズネス・カンパニー・ヴォートとなる。これらはすべてカトリックに非常に不利である。起業家の多くはプロテスタントであり、また63〜64年の調査によれば、大学教育を受けているものは、プロテスタントはカトリックの3倍以上であった。

たとえばデリー市の場合。人口はカトリックが約3万6千、プロテスタントが約1万7千であり、21歳以上の人口ではカトリックが1万9千、プロテスタントが1万であるが、議席はイギリスとの連合を主張するユニオニストが12、南の共和国との統一を主張するナショナリストが8である。このことは市営住宅の割当てや職業あっせんなど市民生活にすぐあらわれる。アルスター全体の失業率が6%であるのに比してデリー市では15%を越えているのも、カトリック住民が多いからである。

こうした差別の根源はなにか。カトリック住民が「白いニグロ」と呼ばれて、低賃金労働者、産業予備軍であることと、北アイルランド政府が、外貨導入をさそう条件の一つに安価な労働力をうたっていること、さらに北アイルランドの工業が、戦後急速な発展をとげた航空機産業を除くと、在来の造船業やリネン工業の発展が行詰まって、外貨導入を図らねばならないことを合わせて考えると、差別は宗教的体裁をとっているが、差別政策の根源は、プロテスタント指導層にあるのではなく、アルスターのブルジョアジーにあると言えるだろう。


こういう構造は、現在のスコットランドの独立運動にはない。

さらにまた、北アイルランドは20世紀はじめの「南北分断」の時代から一貫して、「武装した男たち」が存在し続けてきた。

1912年のアルスター誓約で「プロテスタント」の側が「反Home Rule」で団結を示し、1913年にUVF(アルスター義勇軍)が結成されたのだが、ブリテンの政治家の一部は彼らに対する軍事支援を行なったし、1914年に勃発した第一次世界大戦では、英軍(現在アイルランド共和国になっているアイルランド南部からの従軍している兵士もいた)の一部として大陸で戦った彼ら「アルスター」の兵士(義勇兵)たちは、英軍のそのほかの部隊とは別にまとまって行動した。

一方、「反英闘争」のために武装してきたアイルランドのナショナリストの武装勢力は海の向こうの英国ではない国(米国など)とつながっており、1916年の蜂起(イースター蜂起)が大流血の末につぶされたあとも武装活動は続いていた。そして1920年代以降、「南」が「アイルランド自由国」、「アイルランド共和国」として英国からの分離を進める過程でも、アイルランドの正規軍とは別の武装勢力が、アイルランドの政府からの弾圧を受けながらも、「アイルランドの統一(南北分断の解消)」を求めて武装闘争を継続した(あるいは、「継続できる状態を継続した」)。それが「北アイルランド紛争」でのIRAだが、1950年代の「ボーダー・キャンペーン」を最後にほとんど休眠していたIRAが再度武装し活動を活発に始めたのは、60年代に「プロテスタント」の側が武装し、「カトリック」に対する物理的な暴力を行使したためだ。

そこらへんは、そういうことを説明した本があるので、それらをご参照いただきたい。

IRA(アイルランド共和国軍)―アイルランドのナショナリズムIRA(アイルランド共和国軍)―アイルランドのナショナリズム
鈴木 良平

アイルランド独立運動史―シン・フェイン、IRA、農地紛争 アイルランドを知れば日本がわかる (角川oneテーマ21 A 101) マイケル・コリンズ 特別編 [DVD] ブラディ・サンデー  スペシャル・エディション [DVD] 物語アイルランドの歴史―欧州連合に賭ける“妖精の国” (中公新書)

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北アイルランド紛争の歴史北アイルランド紛争の歴史
堀越 智

北アイルランド現代史―紛争から和平へ ピースライン―北アイルランドは、今 アイルランド独立運動史―シン・フェイン、IRA、農地紛争 暴力と和解のあいだ 北アイルランド紛争を生きる人びと

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いずれにせよ、北アイルランドでのこのような構造、このような経緯を無視されることは、心底、納得がいかない。スコットランドでは、1970年代以降ここまでの「自治拡大、独立への機運の高まり」という「ナショナリズム」の展開において、「武力による脅迫」はほとんど行なわれていない。実際には、かつてタータン・ミリタリズムというものもなかったわけではないが(世界中のあちこちで「なんとかかんとか民族解放戦線」が結成されていたころのこと)、「一部の変な人たちが変なことをしようとした」で終わり、広がりを持たなかったそうだ。

今回の一連の「独立」可否を問う流れの中で「脅迫」を行なってきたのは、むしろ、「独立反対」側のほうだ。いや、ずっと以前から、「独立したって、自立できないよ」という冷笑が浴びせられてきた(そのように冷笑しているのと同じ人々が、たとえばコソヴォ独立などは支援していたりするのだから笑えない)。

Twitterでscotland threatで検索するといろいろ見つかるので、興味のある方はどうぞ。少し例。








※この記事は

2014年09月11日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼