「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2014年08月14日

「最後のスタァ」の死と、それで初めて知ったかの人のこと。



【訃報】ローレン・バコール(ハリウッドの黄金時代を知るスターの最後の一人)
http://matome.naver.jp/odai/2140794710322090101


「ハリウッド映画の黄金時代」の中で生きてきた芸能人の最後の一人、ローレン・バコールが、90歳を目前に亡くなった。訃報が流れた日、見ていた画面には「マドンナのVogueの歌詞に出てきた銀幕のスターたちはこれで全員他界してしまった」という人々の感慨深げな声が流れてきたが、今は「マドンナのVogue」と言われてもわからない人が多いだろう(1990年の曲。ほんとにどこででもかかってた)。

あのような「スター女優」には、若くして亡くなったり、晩年は姿を見せないように隠遁生活に入ってしまったり、芸能界から遠ざかってしまったりする人も少なくないが、ローレン・バコールは生涯芸能界で現役だった。IMDBを見ると、最後の作品が2014年のテレビアニメの吹き替えである。
http://www.imdb.com/name/nm0000002/

その「声」は、あの「目つき」と同じく、女優ローレン・バコールのトレードマークだった。仏頂面をしているか、射るようなまなざしで上目遣いで人を見つめる「ファム・ファタール」は、甲高い声できゃぴきゃぴしていてはならず、声を低くするトレーニングを受けたのだという。

上のNAVERまとめで見ているVanity Fairの2011年のインタビューで、バコールは、彼女が誰かをわからず失礼しましたと言うホテル職員に、「この声でおわかりになるでしょう」と怒った、というエピソードが出てくる。Effortlessly cool(何も努力せずにかっこよい)と形容される八頭身美人のバコール本人はeffortせずに「クール」であったわけではない(脚の長さなどは元からのものであったとしても)。あの声は、努力をして手に入れて維持してきた「声」なのだ。


ところで個人的には、最初に見た映画はおそらく『オリエント急行殺人事件』で、そのあと「名作」として『三つ数えろ』や『百万長者と結婚する方法』でハリウッド黄金期のスタァの存在感に圧倒されたクチなのだが、正直「ハンフリー・ボガートの妻」と言われてもボギー自体よくわからんので(ジュリーの歌に出てきた「昔の人」としか思ってないし、『カサブランカ』でもどこがかっこいいのかさっぱりつかめなかった)、「へー」という程度だったくらいだ。自伝を何冊か書いている人だが私は読んでいないし、スターの私生活には全然興味ないから、25歳も年齢が離れていたとかいうことを知ったのは、実は、訃報があったときだ。

それに、ローレン・バコールといえば単に「アメリカ人で、往年のハリウッド女優(マリリン・モンローとかと同じ時代の人)」で、要するに「アメリカ人」としか認識していなかった。例えばマレーネ・デートリッヒが「ドイツ人」だとか、チャーリー・チャップリンやアルフレッド・ヒッチコックが「ハリウッドに渡った英国人」だとかいうのと同じような文脈のある人だとは聞いたことないし、そう思ったこともない。

なので、これは本当にびっくりした。



というか、バコールが「ニューヨークのジューイッシュ」だということもいままで知らなかった。気にしたこともないし。

でも、Vanity Fairのインタビューを読んで、そういう態度もちょっと違うのかな、と思っている。1944年、対独戦の真っ最中に、彼女は銀幕デビューをしているのだ。ハワード・ホークスという大物プロデューサーに発掘され、ベティから「ローレン」になった彼女は、ホークスから祖母の名前を聞かれて(おばあさんの名前を芸名にすることはよくあったらしい)「ソフィー」と答えていたそうだ。しかし「ソフィー」では売れない。なぜなら……6ページもあるインタビューの中のたった1行で、その「根」の深さに直面させられて、少し戸惑っている。

1945年の今日、8月14日、日本はポツダム宣言を受諾した。
1945年(昭和20年)7月26日、ポツダムで、米・英・中(のちにソ連も参加)が発した対日共同宣言。日本に降伏を勧告し、戦後の対日処理方針を表明したもの。軍国主義の除去・領土の限定・武装解除・戦争犯罪人の処罰・日本の民主化・連合国による占領などを規定。日本政府ははじめ拒否したが、原子爆弾の投下、ソ連の参戦を経て8月14日これを受諾した。

デジタル大辞泉より
http://kotobank.jp/word/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80


そのころ、「ニューヨークのユダヤ人」であるローレン・バコールは20歳で、既にハンフリー・ボガートと結婚していて、たぶん映画の撮影中だっただろう。既に5月に欧州では終戦していたが、完全に「戦争」が終わった8月に、彼女はその「終わり」のニュースをどう聞いたのだろう。

機会を作って自伝を読んでみようと思う。亡くなったあとで気づくとは……だが。

※この記事は

2014年08月14日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:55 | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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