「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2014年08月11日

【お知らせ】Twitterの使い方を根本的に変えることにした。

急展開だが、こういうことにした。今後、Twitterの@nofrillsのアカウントは、基本的にRTだけにする。そもそも私のTwitterの目的は毎日のニュースの自分用の記録なので(以前ははてブでやっていたこと)、自分で必要なメモはつけるが(あとから検索できるように)、自分の意見・考えは述べない。メモる範囲内で英語を日本語に訳すことはあるが、特別の場合を除いては「翻訳」もしない。他人とのやり取りもしない。リプライは見ないが、誤訳などの指摘はいただきたいのでときどきチェックすると思う。一方、「なぜこんなのをRTするのか」、「なぜこんなのを翻訳するのか」、「なぜこんなのを拡散するのか」(そもそも「自分用のメモ」としてやっていたら7k人以上の方に有用と認められたので光栄だが、「自分用のメモ」をつけていることで「拡散」云々と言われても困る)などの(悪いけどどうでもいい)質問は一切スルー。誰かの感想も全部スルー。ブログや「NAVERまとめ」からのフィードは入れる。あと、ときどきウェブ上の記事や紙の書籍からの引用もする。しかし、「自分の意見」は書かない。「感想」も書かない。「議論」になるようなことは一切しない。常に「出典のあること」しか書かない。

何しろ、「(今度何かあったら)容赦しない」と言われたのだから。



※お友達用のアカウントは準備が整ったら@nofrillsのアカウントで流します。8月15日ごろをめどに。リアルまたはネットで実りある対話をしたことのない方は申請されても承認しません。(リアルで「あなたが作れば私がいろいろ教えてあげられるんだから、子供作れ」みたいな暴言を吐いた人も、絶対に、承認しません。二度とかかわりたくないので。)(※あなたの暴言の内容は少しぼかしてあります。)

先日、「お前はなぜそんなものをRTするのだ」という主旨で(ということを読み解くだけで一苦労)粘着されたばかりだが、今度は「シンプル脳」と誹謗され、「容赦しない」と脅され、「消えろ」、「クズ」と罵倒された。

しかも当方を「クズ。消えろ」と罵倒した相手は、当方をフォローしたままである。「クズ」発言した後、30分以上経過してもフォローを外してくれていない。意味がわからない。

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当該人物はこれまで何度かDMで「〜について知っていますか?」、「〜についてどう思いますか?」と質問してきた人物である。これらの質問には、当方は何の義理もなかったが、応じてきた。そういうことはTwitterでは「お互い様」だからだ(私もDMではめったにしないが、普通のツイートで質問することはあるし回答したこともある)。中には相当時間をかけて語義から説明したものもある。「知りません」と応じてもさらに質問が続くので、わざわざ時間を割いて調べたこともある。当方の回答後、先方はきっとそれを仕事上でさも自分が調べたかのように扱っているだろうが、そこまでは知らない。

しかし、そういう事実を忘れたかのようにこちらを一方的に「シンプル脳」と中傷し、あちこちに触れ回るという行為をされては、当方に実害が出る。こちらとしても「DMで質問してきたあれは何だったんすかね」というカードを切らせてもらうしかない。「シンプル脳」を相手に相談していたあなたは何なのか、と。そうしたらそれらのDMは「雑談」だと言うので、「雑談ではなく、相談であるはずだが」と内容をチラ見せしてお答えした。このときに「彼らはネオナチですか。Yes or No」的な「シンプル脳」だったのは誰だっただろうか。(この質問には簡単には答えられない。「ネオナチをどう定義しますか?」ということ、つまり相手が何を「ネオナチ」と呼んでいるかによる。「ネオナチかそうでないか」を分ける唯一のはっきりした基準など、「ネオナチ」をよほど狭く定義しない限りは、たぶんない。一般には欧州の場合、欧州議会の会派が基準となる。EU外ならその会派所属政党との関係をみる。ウクライナは後者で、そのことは私は既に書いていた。)

先方がキレた理由には、実は思い当たるフシがある。まず、先方が重要だと思っているらしいトピックでのDMを当方はスルーしている。なぜなら当方にとっては限りなくどうでもいい話だからだ(「だれそれがこんなことをツイートしてます」って言われても、いや、わしに実害ないし、見てないのでどうでもいいです……ってこと、ありますよね)。また、ある事柄について「プロパガンダ」という表現を使っているのも、おそらく、気に食わないだろう。しかしそれは「誤情報」ではない。ましてや「デマ」ではない。「意見の違い」、「表現の違い」だ。ただ、先方はそのくらいはわかっている人だ。しかし、ある別のことは許せなかったらしく、いきなり「デマ」という表現を使い、噛み付いてきたのだ。

よくあること、と流せばいいのかもしれない。だが、現にそこに存在する(悪意のない、「デマ」ではない)テクストをソースつきで示したことで「デマをまくな」と言われるのを許容することは、翻訳という作業を根幹から否定することにつながりかねない。

たとえば、アメリカでhibachiと呼ばれているものは日本の「火鉢」ではない。日本語を母語とする人なら「ヒバチ」とカタカナにするくらいのことは本能的にできるが、そうでない翻訳者が「火鉢」と訳したとする。その場合、「日本ではそうではない」という指摘だけでなく、「日本文化を貶めるのか」、「それが日本の火鉢だなどというデマをまくな」、「そんなことも知らずによく翻訳者がつとまりますね」などという、論理的な指摘ではなく感情的な苦情や罵倒・言いがかりが殺到したら、それは建設的な批判ではない。ただの圧力だ。

翻訳という行動にはこういうことが必ずついて回るのだが、すべてが加速され、増幅されているTwitterという《場》では、それこそトイレに行ってる間に完全に悪者にされている可能性もある。お茶を入れている間に「hibachiを火鉢と訳した売国奴」というスレが2ちゃんに立てられてるかもしれない。あなたをウォッチしている人物の気分次第で、何が起こるかわからない。

正直、こんなのにつき合わされていたら身が持たない。

同時期に、片瀬さんが妙な陰謀論の餌食にされている。ケンコマさんのもとにイナゴが集結している。英語圏を見れば、国連機関がガザ地区についての統計数値を告知するツイートに、「ハマスがー」みたいなのが即座に群がっているのはもう当たり前の光景だし、ロンドンでガザ攻撃反対デモが大人数を集めたというニュースがあれば「この人たちはイラクで苦境に置かれているマイノリティについては発言しないんですね」と言いつつガザで攻撃されている一般市民については発言せず「ハマスがー」って言ってるアカウントが騒々しくなる(こういうのを、常に "What about...?" でものを言うということから、whatabouteryという)。そのほかもろもろで、まとめると "Twitterの「オワタ」感、はんぱない" ということになる。

さて、当該人物とのやり取りの一方で、私はもう一人別な人とやり取りしていた。

以下、面倒なので「当該人物」をA、「もう一人別の人」をBとする。Bと私とは「ウマが合う」感じで、140字内でときどき世間話をすることがある。(敬称略)

発端は、流れてきたニュース系ツイート(映像の紹介)を私が記録したものだ。




これに、頼んでもいないのにAが「洗脳ですが何か問題でも?と言われると思いますよ」ということを言ってきた。当方、はなからISISなぞと「対話」したいとは思っていない(Aはおそらくここを根本的に誤解している。悪いがISISの生首写真だの磔刑写真だのをあんだけ見せられてなお「対話したい」と思えるアホは、「洗脳」されてない人にはいないと思うよ、私は)。

この「思いますよ」の主語は誰なのか。Aである。Aは勝手に(こっちから問い合わせたわけでもないのに)、架空の「ISISの人の言葉」を代弁しているのだ。(あとから別の人と話したのだが、Aは「ジャーナリスト」の肩書きであるが、こういうことをしている以上は「広報」である。彼を「ジャーナリスト」として扱うことは、推奨されまい)

が、それを問いただすとAは逃げた。しかも「なにか、根拠のない恐慌状態に陥っていらっしゃるようですね。ぼくの知ったことじゃないので失礼しますよ」という意味不明の、自分のTL上だけでかっこよく見える捨て台詞を残して。(Aのこのような振る舞いは以前も目にしたことがある。ある女性ジャーナリストを罵倒したときのことだ。後に私がその女性ジャーナリストの発言を参照して何かを書いたとき、Aはわざわざ「その人は!」的なリプライを飛ばしてきた。お前がその女性ジャーナリストと険悪であろうが何であろうが、私の知ったことではないのだが、なぜそこまで「仲間」と思われていたのか、当方にはまったく不明である。)



発端はこれなのだが、そこでBが横合いから「Aはなぜ『洗脳ですが何か問題でも?と言われると思いますよ』と述べることに違和感を感じていないのか」を分析・解説しだした。BがAの捨て台詞を見ていたのか見ていなかったのかはよくわからない。ともあれ、なぜか「西欧と非西欧」だのといった概念が持ち出されてきた。そして、「Aはなぜ自分の言ってることを変だと思わないのか」をとうとうと解説しだしてくださった。

いや、当方、どうでもいいです。「なんかあの人、はっきょうしててわけわかんないんですけどwww」的な捨て台詞をはかれて逃げられているわけで。

しかしBは延々と続ける。おそらく「善意」だ。だが、Bは私とAのこれまでのやり取りの蓄積などを知らない。それでいて「はたから見ているとこう見える」などと分析してくださる。

その間にも、私はBに「洗脳」という言い方が実際にイラクでなされていたことを説明するためにソース探したりして手間かけたのだが、その「ソースを探す」作業で当時使われていたとはっきり記憶している表現を引き合いに出したら、今度は横合いからAが乱入してきた。






この「ワハビー」というのが「デマ」だとAは言うのだ。

現地で実際に「ワハビー」という言葉が使われていたことが記録されているのに、いったい何をもって「デマ」と言うのだろう。

たとえ話だが、「ばんそうこう」全般を「バンドエイド」と呼ぶことがある。その場合、人々がジョンソン&ジョンソンの製品ではないものを「バンドエイド」と呼ぶからといって、その「バンドエイド」という呼び方を「正しくない」などと言うだろうか。ましてや「デマ」だなどと?

Aはひょっとして、「バンドエイド」といえばジョンソン&ジョンソンの製品しか指さず、ほかのメーカーのは「ばんそうこう(or リバテープ etc)」と呼ぶ、という環境の人なのかもしれないが、世間では「バンドエイド持ってない?」と聞かれたときに「バンドエイドはないけどばんそうこうならある」みたいな態度をとれば、商標には神経質なNHKかと思われるだろう。

2000年代半ば、サダム・フセイン政権が倒されたあとのイラクでは、だんだんと目立つようになってきた「宗教熱心なアルカイダかぶれ」を総称して「ワハビー」と呼んでいた(そのことは私はイラクの人に確認している)。ワハビー(ワッハーブ派)は固有名詞で、厳密には「ワハビー」と呼ばれていた人たちは全員がワッハーブ派であったわけではない。ただまとめて「ワハビー」という用語法があったことは記録されている。上のたとえでいえば「ばんそうこう」を総称して「バンドエイド」というようなものだ。

Aが気に食わなかろうと、「不正確だ」と思おうと、そのときイラク人たちが「ああいう人たち」を総称して「ワハビー」と呼んでいたこと、「彼らは洗脳されている」と(「洗脳」という「西欧」の用語を使って)評価していたことは、《事実》である。

しかしAは、その《事実》をBに向かって説明した私にいきなり横から噛み付いてきたのだ。「デマだ」と。

「実際に、イラク人がそう呼んでいたんですが」と言えば、「それはそのイラク人が間違っている」と言い出す。で、それはそうだとしても何の権威があって、「その土地でその言葉が使われていたという事実」を「デマ」だと言うのだろう。Aはどれだけ、偉いのだろう。

そういうやり取りの中で、なぜか、現地でこんな用語法があったんですよという話をした私が「デマをまいている」、「シンプル脳だからそのデマを疑わない」ということになっていた。

  それは「ばんそうこう」であって、「バンドエイド」ではない!
  みんなが「バンドエイド」と呼んでいるからといって、それを受け売りにするとは、
  お前は頭が悪い! 正確ではない情報を広めるな!

ということのようだが、とにかくもうそのあとは全然止まらない。あげく「クズ」呼ばわり、「消えろ」呼ばわり(でもフォローはしたままwwwwwwww)。

一方のBは、以前、「周囲からはこう見える」ということを、「根拠のないパニック」だの「シンプル脳」だのとひどい誹謗中傷にさらされている私に言って聞かせようとする。被害者に、加害者の心中を思えと諭しているのか。正直何を言われているのか、全然意味がわからなかった。しかも、Bは「私の発言」ではなく「私という人間(の価値観)」を勝手に語っている。なにこれきもい。140字でしか知らないのに。個人的なことは一切話したことないのに。

その前に、Bは果たして、Aが「思います、の主語は誰ですか」という問いに対してケツまくって捨て台詞を残して逃げたのを見ていたのだろうか。その失礼極まりない捨て台詞が発端なのだが。

いや、Bの反応とか弁解とか、どうでもいい。もう読みたくもない。(私はBのフォローをその場で外した。)

さて、Aによる「クズ」だの「消えろ」だのは、単に頭の悪い、小学生じみた罵倒なので実はどうでもいい。(そういう小学生じみたことを平気でするような人物とこれまでつながってきて、多少なりとも情報や労力を提供した自分が情けない。)

問題は、これだ。



「デマを流すなら容赦しない」と言う先方が、何をどう「デマ」と断罪してかかってくるか、こちらにはまったくわからない。何しろ、2005年にこのようなテクストが実際に存在したという事実を示しても、それは「デマ」だとキレられたのだ。

このような場合、もちろんルールは「言論には言論で」なのだが(つまり「2005年にイラク人がワハビーの洗脳集団と書いていた」というテクストに対して、「ワハビーという俗称は不正確である」などと対抗テクストを出すのが普通)、Aは私に対して「容赦しない」のだそうだ。

ちなみに私がbrainwashの用例を探したのは、Bが「西欧のなんちゃら、非西欧のなんちゃら」と言っていたので、「イラク(非西欧)でも使われていました」と言いたかったからである。そのときにbrainwashだけでウェブ検索してもソースは探せない。で、当時、「ワハビーがブレインウォッシュ」ってよく書かれていたよなということで、その組み合わせでウェブ検索したのだ。それをいつもの調子でいちいち実況していたら、横からAが「ISのことかーーーー」と割り込んできたのだ。そしてそのまま吹き上がって、「容赦しない」、「クズ」、「消えろ」。

正直、何をされるか、わかったものではない。

で、このことから私が学んだのは、「実況してはいけない」ということ。モニタと回線の向こうには、マリーさんがいるかもしれないのと同時に、話の通じない、誰かに言いがかりをつけたくてたまらないだけの人物がいるかもしれない。

だから私はTwitterの使い方を根本的に改める。ブログに戻るのだ。(すでに、Twitterが普及する前に積極的に使っていた英語圏のジャーナリストやブロガーが、Twitterでの「交流 interaction」をやめている。私もそのビッグウェーブに乗る。)




もうひとつ、私が警戒しているのはこれだ。



すでに日本語圏のIS支持者によって私のツイートがRTされている(彼らの文脈で「利用」されている)ことは把握している。ISはリクルート活動をさかんに行っているということもいろいろ報じられて知っている私としては、道義上、これ以上その「利用されている」状況を放置しておけない。

しかも今回、いきなり「その場合、どのような宗教的な説諭がなされるか」という話を、ISのビデオに関する私のツイートをきっかけに始めようとするという、身の毛もよだつようなことが実際に行われたのだ。

Aが誰に向かって話をしようとしていたのかは私にはわからない。が、Aが私を何らかの形で「理解のある第三者」として利用しようとしているのは明らかだ。「理解のある第三者」といえば聞こえはよいが、要するにuseful idiotだ。

私は「カルト被害」について多少は知っている。大学では必ずカルトについて注意喚起された「あの時代」の学生だから。周囲でカルトにはまった人もいる。マスコミで報道されるレベルでは「みんなドン引き」であっても、個別に見れば「はまってる」人もいる。それが「洗脳」(と呼んでいいんですよね)だ。普通に会話はできるし、特に目立っておかしな感じもしない。でも誰も気づかないうちに、その人は「はまって」いた。(※「オウム」ではない。念のため)

どういうふうに、何が進行するのかはたぶん私の想像を超えているだろう。けれど、「ISの支持者を増やす活動」のようなものがあるとして、そこで自分のツイートがパソコンの画面にあったりしたら……というのは、考えるだけでもたえがたいものがある。



Aに関しては、これとは別に奇矯な行動の報告もなされているが、当方の経験におけるAに関する一連の記録はとってある。非公開。
http://chirpstory.com/li/223671

※この記事は

2014年08月11日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 08:00 | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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