kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2014年07月31日

ついに、「旗」が原因で、人が死んでしまった。

北アイルランド、アーマー州南部にベスブルック Bessbrook という場所がある。アイルランドの南北を分けるボーダーからさほど遠くないこの町は、産業革命期にリネン産業の「企業城下町」として作られた計画都市である。アイルランド島のこのような新興産業都市の例に漏れず工場労働者は宗派の別なく集まってきていたようだ(「歴史」のしがらみがない町、と言える)。しかし、産業が衰退したあとはその工場の建物をそのまま利用して英軍の拠点が設けられるなどし、北アイルランド紛争の時期には地域全体が完全に軍事化した/させられた。地域のコミュニティはそれでも、極端にプロテスタントが多いとか極端にカトリックが多いという形にはならなかったようだ(もっと大都市部ではプロテスタントの住宅街からカトリックが追い出されるなどして分断が進んだのだが)。

軍事化していた時期のベスブルックについては、この地にオペレーション・バナー(「北アイルランドの治安維持」を目的とする英軍の作戦)で駐屯していた元英軍人の手記に詳しい。IRAの活動が活発でBandit Countryと呼ばれた地域の一角にあるベスブルックは、紛争さえなければ基本的にのどかな緑の野山で、ひつじちゃんや牛ちゃんがのんびりしているのが似合うような「アイルランドの田舎」だが、実際には北アイルランド紛争で最悪の流血を見た(といっても、こういうのは比較の問題ではないのだけど、2011年以降のシリアや2014年のガザを、ソーシャル・ネットのおかげでめっちゃ近くで見てしまった者としては、これが「最悪」という事実に改めて向かい合って、戸惑いのようなものを覚えてしまう)。この英軍施設内のヘリポートは、往時は欧州で最も発着の多いヘリポートだったという(北アイルランドでは英国側の軍人・治安関係者や政治家などは陸路で移動するとIRAの襲撃を受けるので、移動の際にはヘリがよく用いられた)。2007年にIRAが「武装闘争終結」を宣言した直後に、「本当に終わった」ことを形にするためにデコミッションされた英軍施設のひとつが、この英軍基地だった。

そのベスブルックで、2014年7月、ついに「旗騒動」での死者が出た。

County Armagh: Man drowns in Bessbrook flag incident
29 July 2014 Last updated at 11:50
http://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-28531001


ベスブルックの町には大きな池がある。周囲は緑地で、美しい山も見えて、何というか、「憩いの場」と呼ぶにふさわしい公園だ。この池に小さな浮島のようなもの(実際には土はなくて、木が水中から生えているだけかもしれない)がある。岸からすぐで、カナヅチでなければボートなどなくても行けるだろう。



誰がやったのかはわからないが(ロイヤリスト、プロテスタントがやったのではないということだけはわかる)、この浮島の木に、アイリッシュ・トリコロールの旗が立てられた。

かつてIRAが暴れまわったこの土地で、この旗を立てるという行為はあまりに挑発的である。シン・フェインのミッキー・ブレイディ自治議会議員は旗が立てられてすぐに「除去すべき」と述べていた。しかし旗はその後も放置されていた。

見るに見かねた地元の人が、それを除去しにいって、溺死したのだ。

亡くなったのはオズワルド・ブラッドレーさん(68歳)。その場にいた10代の男性が救出に向かい、ブラッドレーさんを岸に引き上げて、救急車が近くの病院に搬送したが、搬送先の病院で死亡が宣告されたという。

BBC記事には、SDLPの政治家のコメントとして「ベスブルックは両派が共存してきたコミュニティで、宗派ごとの関係はとてもよい」とあるが、だからといって誰か個人が、その人にとって "「紛争での暴力」しか連想させないシンボル" であるものを許容できるわけでもない。

しかもブラッドレーさんは、あの "FAIR", わかりやすくいうと「IRAの被害者の会」のメンバーだった。(FAIRの設立者で2012年11月まで代表を務めていたウィリー・フレイザーは、サウス・アーマーの出身だが、2012年12月以降の「旗騒動」においては主要な活動家のひとりで、ベルファスト市議会の「英国旗の掲揚は特別の日だけ。1年365日掲揚しておくのはもうおしまい」という決定に激しく反発している人物だ。)

Mr Bradley was a member of the County Armagh victims' group Families Acting for Innocent Relatives (FAIR).

He was involved in the campaign seeking justice for the victims of an IRA gun attack near his village, that became known as the Kingsmill massacre.
http://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-28531001


Kingsmill Massacreは、1976年1月に起きた、あまりに陰惨な事件だ。アーマー州キングズミルで、工場から集団で帰宅する労働者12人の乗ったマイクロバスが武装集団に止められた。覆面の武装集団は乗っていた人たちに車の外に出るよう命令し、その上で「この中にカトリックはいるか」と訊いた。事件生存者によると、「ロイヤリストが何かの報復のためにカトリックを殺そうとしている。名乗り出た者が殺される」と思われたが、実際には逆で、名乗り出たカトリック1人はそのまま逃され、残った11人のプロテスタントが、一列に並ばされた状態で銃撃を受けた。全部で130発以上の銃弾が発射され、車は(車も)蜂の巣になった。生存者は1人で、その人も18発も被弾していた。この陰惨な事件は紛争を激化させたが、結局実行犯は誰も起訴されていないままだ。特定されたのかどうかもわからない(資料が開示されていない。される見込みもない)。
https://en.wikipedia.org/wiki/Kingsmill_massacre

BBC Newsの記事ではあっさりとした記述だが、ベルファスト・テレグラフではこのキングズミル事件と亡くなったブラッドリーさんとの関わりについて、もう少したっぷり書いている。



ベルファスト・テレグラフでは、2日連続で、1面トップがこの悲劇的な死についてのニュースだ。





※もう少し書き足します。

※この記事は

2014年07月31日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 21:06 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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