「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2007年04月23日

Banksyの正体はBanksyだった、といううそニュースからブラッディ・サンデーへ。

うそニュースサイトを眺めていたらあまりにツボにはまったのがあったのでブログにメモだけ書いておくことにした。ネタは「正体不明の芸術テロリスト」。で、関連してちょっとググってみたら、なぜか北アイルランドにたどりついてしまったのである。それも、デリーのひとりの少年に、IRAには入らないという決意をさせたのは、ひとりのイングランド代表プレイヤーだった、という話に。

まずそのうそニュースの記事:
Banksy's Real Identity Revealed
http://www.thespoof.com/news/spoof.cfm?headline=s1i17688
※うそニュースですのでご用心。

何でも、ストーク・オン・トレントの近くの役場の建物がBanksyの攻撃にあったのだという。さらに例外的なことに、Banksyが攻撃を終えて絵の具の滴る筆を持ってその場を去るところを、地域住民のひとり、Jake Pilkins-Potterさんが目撃、写真撮影に成功したのだという。

Jakeさんの証言によると、彼は非常に背が高く、手が大きく、黒い服を着ていたのだという。

この貴重な目撃証言をスクープしようとHello誌(『週刊女性』のような雑誌という解釈でOKかと)が独占契約を結ぼうとするも、ぽしゃってしまったのだという。

というわけでJakeさんの貴重な目撃情報はHelloの読者でなくとも知ることができるようになったのだという。

そして、目撃者の証言するBanksyの正体とは・・・

Jake later revealed, after an exclusive deal with Hello magazine fell through, that the identity of "Banksy" is non other than former Stoke City goalie Gordon Banks, aged 78.

・・・確かに彼は "Banksy" です。証拠画像。
Banksy

身長183センチだそうです。手は、そりゃもちろん大きいでしょう。
http://www.football-island.net/players3/banks.html
http://www.geocities.jp/fb_museum/GreatPlayer/England/banks.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Gordon_Banks

下記では金田さんも「やっぱ腕も長いですよねぇ」とコメント。(4分45秒あたり。かの有名なMexico 70での対ペレのセイヴが入っています。)
http://www.youtube.com/watch?v=_8VN9VSr30Y

なお、the spoofによると、バンクス本人からコメントをもらうことはできなかったが、代理人が「あの年齢の方の多くがしているように、ゴードンも引退してちょっと絵を描くようになり、あのようなわかりやすい署名をしているのに誰も気づかないということにびっくりしている」とコメントを出したのだという。

以上、うそニュースでした。で、「解説」とかするのも無粋なんだけど、以下にちょっとだけ。

かのBanksyは、一体どこの誰であるのかが不明である。活動暦はけっこう長いようだが(90年代から活動してきた)、誰も彼の本名や顔、生年月日や出身地を知らない。というか、少なくともそういうことになっている。ただ、おそらくブリストル出身だと考えられること(実際、過去の「作品」がブリストルに多い)と、名字はBanksと思われるといったことは、メディアの記事をはじめ、あちこちに書かれている。

ちなみに英国の言語習慣として、-ieまたは-yを語末につけて愛称とする、というものがある。Robertの短縮形Robの末尾に-ieをつけてRobbieとする(<ロビー・ウィリアムズ)など人名に例が多いが、fish and chips屋のことをchippieと呼ぶといったように、人名以外でもよく見られる。だから、ゴードン・バンクスのことを知らなくても、Banksyという名はBanksという名の愛称形であろう、という推測は十二分に簡単に成り立つのである。(ちなみに「欧米人はみなファーストネームで呼び合う」というのは常に真ではなく、名字を変化させたものを自分の愛称としている人もいる。)

というわけで、Banksyイコール「なんとか・バンクス」という男性だろう、ということでだいたい納得できるのだが、「バンクス」という名字はかなりありふれたもので、そんなものがわかっても「謎のアーティスト」の特定には至らないのである。正体はゴードン・バンクスという可能性ももちろん100パーセントは否定はできないのである。




YouTubeでGordon Banksで検索してみたら、Promotional video by Areaman for author Don Mullan and his book about his boyhood hero Gordon Banks. (ドン・マランが少年時代のヒーロー、ゴードン・バンクスについて書いた本のプロモビデオ)というのがあった。
http://www.youtube.com/watch?v=DE4O2FRjt_M

※Don Mullan本人の声なのかな、北アイルランドなまり。

Don Mullanといえば、ポール・グリーングラスの映画『ブラディ・サンデー』の底本となったEyewitness Bloody Sunday(ブログの左のサイドバー参照)の著者ではないか!


1972年1月30日、デリーでの平和的公民権デモに英軍が発砲し13人を殺した事件
の現場にいた少年ではないか! つまり、「イングランド」を敵視して当然のアイリッシュのはずではないか!

と思ってもう少し詳しいことを調べてみたら、こんな記事がBBCにある。「アイルランドのカトリックは英国を敵視していた」という一般論を、すべての個人に当てはめることはできない、ということをはっきりと示している。(例えば、昨今のイラク報道で「シーア派と対立するスンニ派」をあたかも物理の法則であるかのように言うメディアの情報にさらされている身としては、こういうことは常に頭の片隅に置いておくべきだと強く思う。)
http://www.bbc.co.uk/stoke/features/2004/05/gordon_banks.shtml

YouTubeにあるビデオでDon Mullanが語っていることと、このBBC記事からまとめると:
今でこそベストセラー作家として知られるドン・マラン(1956年生まれ)だが、実はディスレクシアで、子供のころは自己評価が低く、何事もスムーズに行かなかった。近所の公園でみんながサッカーをするときは、一番上手い子2人がそれぞれメンバーをピックアップするが、いつも最後まで残されたクチで、最後に残った2人のポジションといえばGKになる。というわけでドンはいつもGKをしていた。

1966年のワールドカップ決勝戦(イングランド対西ドイツ)をテレビで見ていたドンは、ゴードン・バンクスのスーパーセーヴに夢中になった。そしてその後、彼はデリーの街角で、バンクスと同じく黄色いシャツを着てゴールを守るようになった――そのシャツには、お母さんが手でスリーライオンズ(イングランドのチームのクレスト)を刺繍してくれていた。

「自分はアイルランド人だがまだ10歳の子供で、そのときは歴史も政治も理解していなかった。ただ、ゴードン・バンクスは僕のヒーローだと思っていた」

YouTubeでのビデオではその後、1970年のワールドカップでのスーパーセーヴと、72年のStoke CityのLeague Cup獲得戦と進む。そしてそのときのStoke Cityには、テリー・コンロイというFWのプレイヤーがいた――ダブリン出身、アイルランド共和国代表。

カップ獲得の数ヵ月後、バンクスは交通事故で右目を失い、選手生命は完全に絶たれたかに思われたが、77年、アメリカで選手生活を再開・・・というようにYouTubeのビデオは進んでいく。

一方でBBCの記事は、1972年1月30日のあの事件のことへと進んでいく。
15歳で、僕はブラッディ・サンデーを目撃した。同世代の多くと同じく、僕もIRAに入ることを真剣に考えた。しかし結局はそうはしなかった。IRAに入った多くの人たちがどうしてそうしたのかは理解していたが、僕がそれを決断しなかったのにはいくつかの理由があった。ひとつは両親のこと。もうひとつはサッカーの監督と親友のこと。だが最も重要な理由は、スポーツ界の僕のヒーロー、ゴードン・バンクスだった。僕はバンクスのことが本当に大好きだったのだ。

僕は若造だったけれども、直感的に、バンクスは自分にとってお手本になる人だと思っていた。派手な生活をしない堅実な人だと。バンクシーは僕の心の中に住んでいて、僕を希望で満たしてくれる友人のような存在だった。

僕の周囲にもアイルランド「紛争」が及んでいても、僕には空を飛べるイングランド人のヒーローがいた。いつもびくついていた子供に、彼は不可能なんてものは存在しないのだと教えてくれた。彼は知らなかっただろうけれど、彼はひとりの若いファンに、その時既にアイルランド人にも英国人にもあまりにも多くの悲しみをもたらしていたような選択をさせずにいてくれたのだ。

これがゴードン・バンクスの最良のセーヴかもしれない。


Don Mullanの本はこれ:
Gordon Banks
A HERO WHO COULD FLY
- By Don Mullan
- foreword by Gabriel Byrne
http://www.alittlebookcompany.com/books/gbanks.htm

amazon.co.jpで買うなら:
0954704738Gordon Banks
Don Mullan
a little book company 2005-12-30

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関連記事:
August 3, 2005
Banks' greatest save: he kept me out of the IRA
http://www.timesonline.co.uk/tol/life_and_style/article550744.ece

Don Mullan: top 10 books on heroes
http://books.guardian.co.uk/top10s/top10/0,,1832385,00.html
これ↑によると、1972年、ドン・マランは、1月30日にブラディ・サンデー事件を目撃し、5月4日に学校の校庭のへりのところで親友のリチャード・ムーア(当時10歳)がゴム弾で失明し(英軍かRUCかはわからないが、学校にゴム弾をお見舞いしていたということになる)、6月にはヴェトナム戦争のあの有名な写真を見たのだそうだ。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4517597.stm

何年も後になってからのことだが、私はこの写真の少女と直接会った。私たちは友人となり、2001年に私は彼女をアイルランドに招待した。彼女は失明した私の友人のリチャードと、リチャードが現在アドバイスをしている女の子(1998年のオマー爆弾事件で失明した)と会った。このメンバーでアイルランドのTV3のドキュメンタリー・フィルム(10分間)を作った。



※この記事は

2007年04月23日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 13:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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