「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2014年05月21日

もうすぐ閉館してしまうバウスシアターで、『ウィズネイルと僕』と『Blue』を見てきた。

"We are closing down. Thanks for everything"

東京・吉祥寺のバウスシアターが、今月末で閉館となる。

……といわれてもピンとこない方もおられるだろう。東京の西部、八王子・高尾山方面の中央線に乗って23区を出て最初の駅が吉祥寺(きちじょうじ)である。ここは渋谷から伸びる京王井の頭線の終点でもあり、東京女子大や成蹊大などもあり、独特の「空気」を持つ中央線沿線の中でも突出して栄えていて、東京都庁が新宿に来る前からなにやら「文化系」な街として栄えていた。「平成不況」の時代になってデパート(伊勢丹、阪急)が撤退し、街の雰囲気もかなり変わってきているが、その中でバウスシアターはずっと「(メインストリームに対する)オルタナティヴ」な姿勢を保ってきた映画館である。

私が気付いたときにはもう「バウス」はひとつのブランドだった。新宿に「シネマスクエアとうきゅう」ができて「単館ロードショー」、「全席指定・入れ替え制」が新聞記事で「独特のシステム」的に書かれた時代。「ミニシアター」がいろいろあって、「アート系映画」を見る場所もいろいろあって(300人劇場とかもね)、名画座も何箇所もあって(三鷹オスカーの3本立てにお弁当持って出かけていくなど)……という時代、「メジャーな映画」といえばスタローンかカンフーかみたいな時代、「バウス」はいわば「ユーミンは別に聞かなくてもいいかな系」の人々の定番の映画館のひとつだった。10代から20代にかけて、ここでいったい、どれほどの映画を教えてもらったことか。来日したデレク・ジャーマン&ティルダ・スウィントンのトーク&サイン会で、たどたどしい英語でI love your filmsみたいなことを話した(と言えるレベルではないが)のも、ここでのことだ。
http://www.baustheater.com/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%A5%A5%E5%AF%BA%E3%83%90%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%BC

産経新聞WEB編集チーム、伊藤徳裕さんの記事がとてもよい。子供の頃から通っていた(チラシを集めるため!)という。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/140404/ent14040418080018-n1.htm

閉館にあたり、今は特別プログラムで「爆音映画祭」をやっている。「爆音」というのはただ「でかい音」ではなく、バウスシアターのものすごいスピーカーで、映画の音響を最高の状態で楽しもうという企画で、作品に合わせて細かくチューニングされる。当然、(わかりやすい音が出てればOKというようなものではなく)「音」にこだわって見るとおもしろい映画がラインアップされる。企画タイトルのThe Last Bausは、ザ・バンドの解散公演(豪華ゲスト多数)をマーティン・スコセッシが映画として記録したThe Last Waltzを踏まえたもの。この映画もバウスシアターで上映された映画の1本である。上映予定はこちらから。ただしもう売り切れてしまっているものもある。(例えば、『ロッキー・ホラー・ショー』を、あの最高の音で、歌って踊って米撒いて見るのは無理そうだ。)




先にURLを貼った産経新聞の記事から:
バウスシアターに改築したのが1984年。この映画館、日の当たらない作品に光を当ててきた貢献も大きい。例えば、英国の奇才、デレク・ジャーマン監督の作品を国内で初めて紹介した。同監督作「カラヴァッジオ」(1986年)でデビューしたオスカー女優のティルダ・スウィントンとともに来日し、吉祥寺のカフェでお茶をしているといった不思議な光景も見られた。また英国の巨匠ピーター・ブルック監督の「注目すべき人々との出会い」(1979年)を独占公開したほか、ジョニー・デップが「完璧な映画だ」と絶賛したカルト映画「ウィズネイルと僕」(1987年)を自ら配給した。うれしいことに、これらの作品は、26日から始まる特別企画「バウスを巡る映画たち」で見ることができる(ジャーマン監督は1993年の遺作「BLUE ブルー」)。

 これは閉館にあたっての特別興行「THE LAST BAUS〜さよならバウスシアター、最後の宴」の一環だ。並行して名物「爆音映画祭」も開催され、2週間かけて計27本を上映する。

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/140404/ent14040418080018-n2.htm


バウスシアターの最後の上映作品案内の看板。シアターをメインとするあの一角(「バウスタウン」と呼ばれている)の向かって左、今は「訳あり品」のタオルや靴下のようなものを安く売りさばいている移動商店が間借りするようなレンタルスペースになっているが、かつてナチュラルハウスという健康志向の食料品店が入っていた店舗と、その隣の建物との境目にある。

Last Baus

Baus Theatre posters (The Last Baus)

「バウスタウン」の敷地の反対側、今はジーンズメイトが入っている建物との境目のほうにある看板。

Today's programme Withnail and I

階段を上がって、劇場の受付へ。

Up the stairs

Baus logo

本エントリ冒頭に見える、閉館のお知らせの書かれたボードの裏側。描きこまれているように見える花や☆などは、金紙などで作られて貼られたもの。シアターの最後に、あの空間にこのようなパターンを貼り付けるというアートの企画が行なわれている。劇場内のスペースでは、この作品の中にいろんな人のメッセージが書かれていた。

The back side of the billboard

Main theatre entrance Baus Theater doormat

メインのシアターの入り口。上のほうに貼られている金紙の細工も、シアターの最後に行なわれているアートの展示で、普段はないもの。

Baus Theater logo バウスシアター











Baus 2 logo







The Baus complex



『ウィズネイルと僕』は当日料金1,800円、「爆音映画祭」は1,500円。バウス1(メイン)もバウス2(元JAV50)も、補助席出てました。

バウスシアターの「中の人」たちや、ゆかりの人のインタビューや寄稿と、開館以来こんにちまでの上映作品のリストが1冊の本にまとめられています。「爆音映画祭」のboidさんからの出版。劇場にも置いてあったし、駅から劇場まで行く途中(サンロード)の『ブックス・る〜え』の「吉祥寺本」のワゴンにもありました。






21日午後、Flickrの写真を入れ込んだ。Flickrは最近のインターフェースの変更(改悪である)により、「写真をシェアする場」としての機能を大幅に縮小した。10年前にFlickrが始まったとき(Yahoo! に買収される前、カナダの小規模なウェブサーヴィスだった)は、デフォルトではCreative Commonsのライセンスで公開される(オフにしたければそう設定する必要がある)というくらいにラディカルに「開かれた」場だったのに、やがてユーザーが増えるにつれてデフォルトはAll Rights Reservedになり(これはそれでいいと私も思う)、そして2013年後半から公開テストが開始され今年3月下旬に全ユーザーに有無を言わせず導入された現行のレイアウト(個別写真の背景が黒くなり、がちゃがちゃとうるさいサイドバーが表示されるの)では、「写真をシェアするコードが取得できない」状態になっていた。Flickr(というかYahoo!)にしてみれば「HTMLコードなんて、今どき使ってる奴いないんじゃないの」ということなのかもしれないが、家庭でみながめんつゆを使うようになったからといって醤油と砂糖とみりんを小売店が扱わないということは考えられないわけで、大勢の人がブンスカブンスカしている。むろん、CCや情報の自由の活動家はブンスカブンスカブンスカブンスカブンスカくらいはしている。

実際、このインターフェイスになってから、私もどうにも使う気がしなくなってしまった。使っていて楽しくないからだ。というか、Flickrの「風通しがよくてゆるい」感じ、使う上での「楽しさ」がなくなってしまった。それでも、この10年近く(!)にわたって使ってきたサーヴィスだし、容量は「画像置き場」としては十分なので、まあ、あまりFlickrであちこち見て回って楽しむということはしなくなるだろうけれど、自分では使い続ける(「引越し先」は探さない)だろうと思っていた(私はそのくらいに「すでに囲い込まれている」固定客だ)。しかし、HTMLコードが取得できないのでは、「画像置き場」にもなりゃしない。下記はFlickrにログインした状態でのキャプチャ(ちなみに私はBloggerをFlickrと連携させているが、そのボタンは見当たらず、逆にここに表示されているTumblrやPinterestはFlickrと連携させていない)。



新しいインターフェイスでは、ライセンスの切り替えは前より簡単にできるようになっているのだが(いったんCC BY-NC-SAでアップした写真を、CC BYに切り替える、ということが2秒でできるようになった)、Share this photoのボタンが、ほかの「ソーシャルメディアへの投稿」は簡単にできるのだけれども、HTMLであれBB Codeであれ、コードが取得できない。インターフェイスが変わってしばらくは、コードが取得できないのはバグだろうと思っていたが(それはFlickrには「いつものこと」である)、それから1ヶ月以上経過してもまだダメなようだ。ログアウトしてログインしなおして、キャッシュを削除して、アドオンをoffにして、別なブラウザでもやってみて……と1時間ほど費やしてあれこれ試してみたが(まったくひどい無駄を強いられている)、CC BYという一番開放的な(制限のない)クリエイティヴ・コモンズのライセンスに切り替えた自分の写真で試してみても、「写真の利用に制限があるためコードを表示できません」というメッセージが表示される。下記はログアウトした状態でのキャプチャ。




これではいかんともしがたいので、検索して、@yagerさんのブックマークレットをありがたく利用することにした。(本当に助かります。ありがとうございます。)

【更新】Flickr画像をすばやくブログにコピペするためのHTMLを表示する「FlickrQuickEmbed」
http://creazy.net/2013/10/flickr_quick_embed.html


本エントリにエンベッドしたflickrの写真は、21日午後になってから、このブックマークレットを使って追加したものである。作業がすいすい進むので、Flickrの写真をブログに使いたいのにうまいこといかないという方は是非。

※なお、私がFlickrにアップしている写真の大半はCreative Commons BY-NC-SA 2.0なので、それらはFlickrのタコがSharing is restricted for this photoとか言ってきても気にせずに使ってください。ただし一部、All right reservedのものもあります。こちらからどうぞ。
https://www.flickr.com/photos/nofrills/?details=1

FlickrでBloggerに簡単に投稿できなくなったりしている点については:
https://www.flickr.com/help/forum/en-us/72157642307716514/page7/#reply72157644365229898
タグ:flickr

※この記事は

2014年05月21日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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