以下、引用(blockquote)で★を添えて示すのは、トークの場での小菅信子さんの言葉を私がメモったものを、人に読める形にリフレーズしたものである。文責は私にある。
★
20世紀、「原爆の開発と実戦での使用」は、世界史の中で流れを変えた。「流れを変えた」というのは、「それがなければその後の冷戦(核開発競争)はなかった」という意味である。
核兵器の開発競争と同時進行で、「核の平和利用」が提唱された。資源のない日本(第二次大戦は「資源のない日本」による戦争だった、と位置付けることができるが)が、この時代、原発を次々と作ったのは、「夢のエネルギー」としての原子力の利用の形だった。
しかしその日本は、同時に、「唯一の被爆国」であった。その国があれほどの数の原発を作ったこと。そのことを考え直してよいのではないか。
……既に記録され語られている歴史的な事実(正力松太郎、CIA etcも含め)はある。それをベースに、これらを検討することはきっと、ひとりひとりにとって、ものすごく体力と知力を要する、とても息の長い取り組みになるだろう。簡単な「結論」は出ない。そもそも「結論」などないかもしれない。
★
東日本大震災の後、どうなっているかというと、それまでの「安全神話」が「危険神話」にシフトしただけのように見える。
……ここでいう「神話」は、もちろん、例の「神話作用」の「神話」でもあるのだが、より直接的に、「それ」を語るときに「神話」が利用されているという事実がある。
★
放射能の危険性を、神話的に表現するということは、ずっと以前から行われてきた。(朝日新聞の連載のタイトル「プロメテウスの罠」にある)「プロメテウス」は、物理学者の朝永振一郎が使った表現だ。科学者が原子力というものについて、そのような形で語った。
その科学者がやったことを、より理性的にとらえ直す必要がある。
![]() | プロメテウスの火 (始まりの本) 朝永 振一郎 江沢 洋 みすず書房 2012-06-23 by G-Tools |
『放射能とナショナリズム』の66〜67ページを参照する。本書の中心的な問題意識が明確に示された箇所である。
……関東大震災時に石橋湛山は、『東洋経済』の社説で「此(この)経験を科学化せよ」と提案した(1923年10月1日号)。この論文を、東日本大震災とTEPCO 1F事故後に読み直すと、「経験を科学化せよ」との主張が、時代と事象をこえて、現下の日本でいかに絶対不可欠な課題であるかが実感できる。この論文には、震災の恐怖と混乱のなかで朝鮮人への暴虐行為がなされたこと、本来は冷静な行動をとらなければならなかった人びとがむしろその混乱を煽るが如き振る舞いをしたことも批判されている。
「経験を科学化せよ」との提案は、日本社会が抱える、低線量の広域放射能汚染に根差した不信の連鎖や差別という、将来の日本のありかたにきわめて重要な影響を及ぼしうる問題について高い解決性があるのではないか。いま起きていることの複雑さを理解しようと努力するよりも、わかりやすさを好むならば、そうした傾向は先入観を強化することにも、単に別の先入観を生産することにもつながりうる。経験の科学化が対峙しなければならない者は、このような思い込みを検証する力の欠如だろう。……
以前、ひどい咳が出て寒気がして、熱を測ったら37度5分だったことがある。元来怠け者なので普段なら1日休みをもらって寝ているのだが、タイミング的にその週はいろいろ間際で休めない。引っ越したばかりで初めて行った町医者は、昭和30年代のクラシカルな建物を自宅兼診察室にしている、かなり年配の女医さんだった。診察室に入って、「どうしました?」と聞かれたので、「風邪を引いたようなのです」と答えると、もうね、あんな目でお医者さんににらまれたことないっすよ、というような目でギロリと睨まれた。「風邪かどうかを診断するのは、あたくしの仕事です。あなたは症状を言うだけでよろしい」
はい、そりゃもう、先生のおっしゃる通りでございます。「風邪を引いたのでよく利くお薬をください」的にお伺いしてすみませんでした。でも先生、お薬ください……抗生物質のアレルギーはありません……などと言う勇気があろうはずもなく、おとなしく喉を見てもらい、聴診器をあてがってもらった。診断は「いわゆる普通の風邪」。
じゃあ、最初っから患者である私の見立てが合ってたんじゃないか、などとは思わなかった。せんせー、ガチ、科学者、みたいにしびれていた。
「風邪」と思い込んでインフルエンザだったり、肺結核だったりしたら、大変なのは自分だけではない。職場の人たちにも感染させてしまう。思い込みは危険なものになりうる。そういうことは一応わかってはいるのだけれど、実際には「風邪ひいたみたいですぅ」をやってしまう。それまで住んでた場所のお医者さんもそれを諌めるようなことはしなかったし、こちらもそれでいいと思っていた。でも実はそうじゃない。
この町医者のように「日常的な思い込み」を排して厳密になることで、人は事態を「客観視」できる。それを「科学的態度」という。私は自然科学ではなく社会科学の分野だが、大学に入って最初に叩き込まれたのはそれだった。特に「ことば」というものはそのプロセスで重要な役割を果たす。「風邪」ということばを使うとき、ただ慣習でそう言うのではなく、私は何を根拠としてそう述べ、何を意味しているのか? ということを自分で明確化して考えねばならない。
それが「冷静」ということだ。
「3月11日」が歴史に刻まれた。この1年間、日本のメディアも論壇も、「原発推進」か「原発反対」かのレッテル貼りに熱狂した。あたかも満州事変期に軍国熱や排外熱が異様な高まりを見せたごとく、日本社会は反原発熱ともいうべき熱病に罹ったかのようであった。そのような状況で、脱原発依存には賛成であるものの、私は必ずしもそうした主張を前面に出すことはせず、持論を展開させてきた。
――小菅信子『放射能とナショナリズム』彩流社、2014年、pp. 68-69
小菅さんのこの観察は、実は私の「実感」とは一致しない。テレビのない環境なので、「熱」が伝わってきづらい上に、新聞記事などもネットで「日々のニュース」を追うのが精いっぱいであったし(朝日新聞の連載は読んでいない)、個人的にはマスメディアの使う「用語」の奇妙さ(「〜と主張した claim, insist」はずのところが「〜と指摘した」と表記される、テロ法での起訴案件でなくても「テロ」呼ばわりされる、など)が目について鼻についていたし、「反原発熱」を前提としたカウンター的な流れが臆面もなく(チョムスキーが指摘していたような)「メディア・コントロール」の効果を垂れ流していたのがとても気になっていた。
例えば、NHKのようなマスメディアが、震災1年の記念式典における天皇お言葉から「放射能」への言及(今上天皇が国民に語り掛ける言葉として、「放射能汚染」を口になさったのは非常に大きなことだろう、常識的に考えて)を丸ごとカットしてしまっていた。さらにはそれを「どこもおかしくない」、「普通のことだ」と言ってのける感覚が、私の見ていた範囲では「記者」の間でデフォだった。
あんたたち、小泉首相(当時)が「メルマガ」とか言い出したときに「斬新だ」とか「これまでの政治家の言葉とは違う」とかいう感じで大騒ぎしてたじゃん?
むしろ、「反原発」、「脱原発」イコール「デタラメな主張」や「過激な主張」と単純化する圧力がとても気になっていた。だからこそ、ごくごく小さな範囲にしか届かなかっただろうが、「デタラメ」を検証したり指摘したりもしていた。「デタラメ」を野放しにしておくことが何か良い方向につながるとは思えなかったからだ。(例えばCommittee to Protect Journalistsでの議論の混乱についてコメントを投稿したり、ネットの情報に頼るのがデフォの在外日本人の間で「もう東京は水道水も飲めない」的な、140字に収まるよう単純化された「恐怖譚」が出回っているのを見て「そういう切り取り方はやめませんか」と述べたりしているのは、Twilogなどでご確認いただけるだろう。)
一方で、それら「デタラメな主張」について、「デタラメだからダメ」ではなく、「差別につながるからダメ」という人たちが少なからず存在すること(それも、「ネットでの議論」という場でよく見知っていた人たち)には、控えめに言って、衝撃を受けた。情報そのものが真であるか偽であるかで判断するのではなく、それがもたらしうる効果の良しあしで価値判断することは、私には上策とは思えない。それこそ、どっかの「思想家」を名乗る人が臆面もなく述べていたように、「差別につながるから放射能を怖がるな」という話になってしまう(じゃなくて、「怖がるのは当然だから怖がっていいんだけど、差別すんな」でしょう)。
そして、Twitterでは「放射能汚染なんていやだ、怖い」という発言をする人々を揶揄して「放射能」をもじった、他者を馬鹿にするしか用途のない薄汚い言葉が流行った(流行っている)。(たかが140字の断片の積み重ねで、その人の何がわかる? 全人格を否定するような言葉を、公の場で、「さらしものにする」ために使うな。)
明らかなデマゴーグの「デマ」を批判するというより、誤情報はすべて「デマ」と呼びならわし、「差別を生じさせる」と指弾するような光景が目の前に展開されていて、頭が痛くなった。そもそも「デマ」とは「悪意をもって流される誤情報」であるはずだ。不確定なこと、不確実なこと、単に不正確な情報は「誤情報」や「噂」であって、「デマ」ではない。
しかし、明らかなデマゴーグ(念のために書き添えておくと、あるテレビ局のディレクターだったという方、ある団体に告訴されている方や、「元ジャーナリスト」なる妙な肩書きを使ってみたりしている方などは「デマゴーグ」だと私は思う)のばら撒いている「(悪意のある)デマ」だけでなく、単なる誤情報や「これって本当なんですか?」という反応を書き添えての手動RTまでも「デマ」、「デマの拡散」と呼ぶという奇妙な習慣(マスコミも「ネット民」もこの習慣を有している)が横行した(している)。その中で、どれほどの「語る立場」が奪われただろうか。
「不安」や「不信」はあって当然の事態だ。しかし、これらの「不」を口にすること、表明することを、「過剰な」という形容字句をつけて評価したり、「デマ屋のデマ」と同一視したりような形で封じ込める方向の力が、特にネット上にはある。Twitterでは何か「不安」を口にすると知らない人から激しい言葉を頂戴したり、「差別に加担するんですか?」という方向でTogetterのまとめ(残念なことに、醜悪な「晒し上げ」の装置として機能している)に載せられたりしかねない。
一方、「とにかくいやだ」という考えの人に「電力会社に対し擁護的」と違和感を抱かせるような発言をすれば、「原子力ムラの一員」「御用学者」などというレッテルが貼られることも多発した。根拠などなく、思い込みだけで、「この人は業界のカネを受け取って喋らされている」といった中傷が、公開の場でなされる。小菅さんもネット上での無根拠な中傷の被害者だ。その具体例は『放射能とナショナリズム』の17〜18ページに記されている。小菅さんにぶつけられたのは、唖然とするような非論理である。
(私もああいうのの被害にあったことが何度かある。言葉じりをとられて「あの人は南京事件はなかった論の側にいる」という方向で指弾され、「法の下の平等が保証されている」という教科書通りの発言をしたら「現に存在している差別について、ないと主張している」というデマをまかれ、シリアでアサド政権が何をしているかを述べたら「帝国主義者」と罵倒され、「AfPakで米国のドローンで女子高生が粉々になった」などというソースもない流言を流言であると指摘したら「米国のドローンを擁護している」と言いがかりをつけられた。ああいうのは「インターネット」にはもれなくついてくるおまけだと思いつつ、反論したほうがいいと思うときはするようにしているし、基本的に、記録は取っている。公開の場でなされたことについては公開の場で記録している。多くの人がそうしていると思う)
「言ってることがデタラメだから」批判されるのではなく、「御用学者だから」ダメなのだ、というあのトンデモ思考(「セット思考」ともいうかもしれない)は、何にも資するところのないものだ。しかしそこには「わかりやすい物語」がある。「大衆を騙すための嘘ばかりの体制と、ひるまず真実を追究する非・体制」という物語。これは「政府etcの言い分しか流さないマスコミと、ネットde真実に気づいた俺たち」という9-11のTrutherの物語や所謂「ネット右翼」の物語と同じ系統で、つまり見覚えがありすぎる。
どうしてこうなってしまうのだろう。なぜ「どちらが正しい」の話になる? 私たちは「唯一の正しい立場」をめぐって戦争をしているのか?
今はいずれが正しいのかを競うのではなく、評価が定まらない事情を踏まえて、「それならどうすればいいか」の議論にシフトすべきなのに、そうはならない。原子力をめぐって一向に調和することのない二つの立場の間の溝の深さは、「原子力的日光」に照らされた社会に落とされた「影」の深さと通じています。
――武田徹『私たちはこうして「原発大国」を選んだ - 増補版「核」論』、中央公論新社、2011年(電子版より)
私たちはこうして「原発大国」を選んだ - 増補版「核」論 (中公新書ラクレ) | |
![]() | 武田 徹 中央公論新社 2011-05-10 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
2011年3月11日、建物を倒壊させアスファルトの道路を割るような大きな地震と、沿岸の町を壊滅させるような大津波と、そのときは誰も想定していなかったような原発事故という3つの大災害が立て続けに、ほぼ同時に起きた。そのどれか1つだけが単独で起きていても、大災害だった。
やはり最も深刻で広範囲にわたる大きな影響を及ぼしたのは、原発事故だったが、地震・津波・原発事故の3つが一緒くたに、「(そこから『復興』する必要のある)被災」として認識され、語られているところに、いろいろな混乱が生じているのではないか。直接の「被災」はほぼなかったといっていい東京で広まっている「放射能汚染(への不安)」と「政府への不信」は、これら渾然一体となったものを解きほぐして分析することによって、かなり乗り越えられるはずのものだと私は思う。(「プロメテウス」云々の比喩を重ねるのではなく。)
ひとつには、考えるときの出発点の段階で、「被災(天災)」と「被害(事故・人災)」を(「地震がなかったら」と、「原発のメルトダウンがなかったら」を)区別すること。"A or B" での明確な区別ができる範囲はおのずから限定的だろう。けれどもそこから紡ぎ直すことはできると思うし、紡ぎ直していかないといけないと思う。ただしそれは、きっとものすごい労力と根気を要するだろう。しかも、センセーショナルではないので売れない(ただでさえ、もうとっくに、「原発」の話題は売れなくなっているのだが……「一部の極端な人」があんだけぎゃあぎゃあやれば、そりゃうんざりもしますよね)。
@nofrills 被災者では無く被害者だと、浪江から来た方は仰いました。人災と天災は区分けして考えなければ物事は前に進みません…今ある被害の殆どは想定外の天災では無いのだと思います。
— キチガ☆バカ猫(ΦωΦ) (@emacat_bot) March 11, 2014
![]() | 風化する光と影―“メディアから消えつつある震災”の中間報告 (マイウェイムック) E-lock.planning 2012-03-07 by G-Tools |
![]() | 震災以降 東日本大震災レポート 渋井 哲也 村上 和巳 渡部 真 太田 伸幸 三一書房 2014-04-18 by G-Tools |
私も「理系」ではないし、放射性物質について特に多くの知識があったわけではないが(今もない)、震災後、さまざまな媒体を通じて「人々がいかに知らないか」ということを知り、愕然とした。2011年3月、オンラインで中継されていたパネル・ディスカッションでは、「屋外に保管してあった薪は外側をはいでから使えばよい」という話が出たときに、司会進行役が「でははいだ外側(放射性廃棄物)はどうすればいいのか」という問題点に思い至らず、会場からの質問でようやく気付いたという状態だった。ゴミ袋に入れてゴミの日に出せばいいという性質のものではないからこそ、「放射能汚染」と呼ばれるのだが……。
いや、そんなもんじゃなかった。21世紀になっているというのに、1945年の「ピカが伝染する」的な偏見が現存していた。(「21世紀になっているというのに」というか、「ラジウム温泉」とかありがたがってたんじゃないの、という情報空間でのことだ。)「福島(県なのか何なのか不明確だけど)を通った車は放射能がついている」みたいな、どんだけミクロなレベルでのお話ですか、ということが「問題」となり、福島に物資が入らない状態が生じたり、避難を余儀なくされた人々が物理的に遠ざけられるという事態が報告されたりしていた。
少なからぬ人々がネット上で「原発推進/御用学者」か、「反原発/放射○」(震災後に作られた新語として「脱原発」もある)かというレッテル貼りにいそしんでいるなかで、というか並行して実在しているリアルな世界で、恐ろしいほどの無知と偏見がむき出しになっていた。
ただし個人的にはそんなことになっているとは「実感」できなかった。近所の、普段買い物に行く食料品スーパーでは普通に(「食べて応援」などと気負うこともなく)福島県の野菜(会津、郡山、伊達といった地名が印刷された袋や箱に入ったきゅうり、トマト、ナス、えんどうなどなど)が並んでいた。福島の農作物についてひどいことを言う火山学者の人がTwitter上にはいたが(誰かがRTしていたので知った)、私に知覚できる限り、そんなのは「ネットだけのこと」だった。
「ネットだけのこと」も、「ネットの外」に作用する力を持つ。そのことについて、以前、Twitterで小菅さんと言葉を交わしたことがある。2013年6月末から7月、エジプトで政変(モルシ政権転覆)が起きたときのことだ。あのとき、タハリール広場を埋め尽くした「反モルシ」の群衆の中に、なぜか、「反米」というか「反オバマ」のメッセージを掲げた者たちがいた。「いた」どころか、広場の一番いい場所にダンマクを張ってた。「反オバマ」というのは米国の極右などが言っている説で「オバマは隠れムスリムで、実はイスラム過激派のアジェンダを進めている。エジプトでムスリム同胞団の大統領が当選したのもオバマ一派の陰謀」みたいな愚にもつかない妄想で、米国の外交筋でもまともな人は誰も相手にしていなかったのだが、それが突然、「タハリール広場の一番いい場所」に現れたのだ。その言説が「無視できる(無視しておくべき)存在」ではなくなって以降、何人もがそれについて書くことになった。下記にリンクしている記事において、そのようにエジプトのデタラメっぷりを指摘した @ASE (Ahmed Shihab-Eldin) は、米ハフィントン・ポストの優秀な記者・論者のひとりで、パレスチナ系アメリカ人である。
しかし、ASEのこの記事でまで、「反オバマ」(隠れムスリム論)がコメント欄に湧いているというのは…。ネット上にしかないパラレルワールドなのだろうけれども、「まともな人」がフフンって見下してると食われるよ、ああいう「ネットde真実」系のムーヴメントは。
— nofrills (@nofrills) July 21, 2013
@nofrills 「ネット上にしかないパラレルワールド」って言い得て妙だと思います。「見下してると食われる」も。なんていうんでしょうね、この現象は。「ああいう『ネットde真実』系のムーヴメント」のなかには、ある種の創造力を獲得するものがでてくると思います。
— 小菅信子 (@nobuko_kosuge) July 21, 2013
また、ネット上での発言が無闇に攻撃的になるということは、ずっと前から指摘されていた。日本語圏でははてなブックマークで「○ねばいいのに」(一部伏字)という罵倒表現(お笑いのダウンタウンがよく使っていた「笑い」のフレーズだそうだが、ダウンタウンは全然好きではないので私はよく知らない)を連発するユーザーがいるとか、「ある事件の真犯人はあなただとネット上で聞きました」程度のきっかけで芸能人にヘイトメールを送ってしまう人が(たくさん)いるとかいった事例にリアルタイムで接している。英語圏では「フェミがいちいちニュースに出てきてうぜぇんだよ。○すぞ」系の暴言や脅迫の事例がある。
2年も前のものだが、分析の一例。(自分のログを「ネット上」というワードで検索した結果を見てて発掘した。)
http://t.co/kMsGEND2 "There is something about the alchemy of a keyboard and a public platform" ネット上に書き散らかされる「個人の考え」のなかで無用に攻撃的なものについて。
— nofrills (@nofrills) March 19, 2012
いったんここまで。
※この記事は
2014年03月28日
にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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