看護婦さんから応急手当はしてもらいましたが、娘も私も流れ出した血で、血だらけでした。上の道に出たら、急に「ベイビイ、ダイジョウブ?」と、外国人が走り寄ってきました。それは幸町の捕虜収容所〔福岡俘虜収容所第十四分所〕にいた捕虜の人でした。…〔中略〕…捕虜たちは救急箱から赤チンキば出して塗ってくれて、包帯ばしてくれました。息子も娘もみんな。包帯なんか、捕虜はいつでも包帯をもっとりましたよ。もうあん時は、敵も味方もなかったですよ。
1945年8月9日、長崎県長崎市。原爆投下直後の「現場」を伝える証言のひとつである。出典は「NHK取材班『NHKスペシャル 長崎――よみがえる原爆写真』(日本放送出版協会、1995年)141ページ……と、小菅信子『放射能とナショナリズム』(彩流社、2014年)134ページに書かれている。証言自体は109ページに掲載されている。
![]() | 放射能とナショナリズム (フィギュール彩) 小菅 信子 彩流社 2014-02-18 by G-Tools |
3月20日。3連休前日で春休みのこの日の午後、薄寒く霧雨の新宿を行きかう人々の中に、はかま姿の若い女性がいたり、大きなスーツケースを引きずって駅の改札に向かう女性がいたり、スーツにネクタイにブリーフケースという仕事中の男性がいたり、なぜかマークス&スペンサーのビニール袋を持って大股で(あのテンポ、あの歩き方で)ざくざくと歩いていく背の高い金髪の男性がいたりした。駅の券売機のところでは日本語表記がはっきり読めずに困っていることが一目瞭然の若い男性がいて、"You okay?" と声をかけると「あ、恵比寿なんですけど、見つからなくて」とすらすらと日本語で答える。「恵比寿はね……」と確認して、「160円」と伝える。「ありがとう、助かります」と、アルゼンチンの「神の手」男にちょっと似た風貌の彼は微笑む。その後ろを、「ええっとですね、5分くらいで…」と携帯電話に向かって話しながら通り過ぎるベージュのコートの若い男性がいる。プラットホームで、Tokyoと書かれたムック本みたいなのを広げて覗き込んでいる若い男性2人組が話しているのは、たぶんハングル。
あの大きな揺れがあったときも、こんなふうだったのだろうか。
被災地にはおおぜいの「外国人」がいて、「海外」にいるその人たちのご家族やご友人は必死で安否確認をしようとしていた。かつて日本で過ごしたことのある「外国人」が、「海外」から、世話になった人が無事かどうかを確認したい、と言っている。自分には「できること」なんか何もなかったけれど、Googleがperson finderを立ち上げるまでの時間で、一般に報道されていることを英語にして伝えることはできた。「東京でも死者が出ていると聞いたが、どれほど壊滅しているのか」という《不安》は、不幸にも亡くなった方についての情報を与えることで(そして何より、東京から多くの人々がリアルタイムでツイートなどしているという事実により)「被害がないわけではない」という《冷静な認識》に変わった。
その頃にはもう、ジャーナリストの人たちが(日本人も外国人も)次々と現地入りしていた。「やっとチケットが取れたのでこれから日本に飛ぶが、地方の空港しかない」という情報が、「その地方の空港は無事である」という情報になった。でもその先は。そのとき、被災地で最も広く知られていた地名は、Sendaiだった。「仙台にたどり着けるかどうか」がキーだった。英語圏のジャーナリストは津波に襲われた街から伝えていた。大船渡、大槌、釜石、陸前高田……東京で日本語で暮らしていても普段はめったに聞かない地名が、英語圏のニュースで次々と「発信地」として記載されたが、それらの地名の中で最も知名度が高かったのは仙台だった。
その「最も知られた地名」がFukushimaに変わるまで、2, 3日もなかっただろうか。3年後の今、当時ニュースを見ていた外国の一般人に、Sendaiという地名が記憶されているかどうかは微妙だが、Fukushimaは今や、誰も知らない人はいない地名となった。うちらがウクライナについて、「チェルノブイリ」だけはずっと知っていたのと同じだ(むしろ、「チェルノブイリ」といえば「旧ソ連」というざっくりとした理解の人も多いかもしれないが)。ただしこのFukushimaはFukushima Cityではなかった。「その文脈」におけるHiroshimaがHiroshima Cityであり、Nagasakiがthe City of Nagasakiであるのとは違っていた。でも、それが了解され、前提されていた/いるかどうか。
『放射能とナショナリズム』は、「フクシマ」という「他者表象の記号」(p. 94)の出現(というより創出か)によって、「福島」と「フクシマ」のあいだ(同書第2章のタイトルより)が作られて/生じてしまい、そこに《不信》が足場を得ている様子を、分析的にというより記録としてとらえている。その《不信》と、日本の、「唯一の被爆国たるわが国」のナショナリズムの関係を考察していこうという、とてつもなく射程の深い取り組み(の、おそらく最初の1冊)である。
3月20日、東京・新宿の紀伊国屋書店内にあるスペースで行われたトークで、著者の小菅さんは、「『福島』か『フクシマ』か、という問題は、日本語でしか通じない」ということを指摘した。(加えていえば、日本語圏で、しかも目で文字を見て情報を得る場合にしか通じないだろう。例えばラジオでは通じないし、視力を使わない人にもピンとこないかもしれない。)ちなみに「フクシマ」というカタカナ表記はニューズウィーク日本版が最初に使ったものだそうだ。
日本語でしか通じないというのは、実際にそうである。
それどころか、「原発が爆発している決定的瞬間の映像」(と書くと「爆発しているのは『原発』ではない。もっと厳密に、正確に書くべきだ」と言われるかもしれないが、現にあの写真が「原発の爆発」と認識されていることは留意されるべきだろう)が世界に流れてしばらくの間は、それが「福島第一原発 Fukushima Daiichi」であって「福島第二原発 Fukushima Daini」ではない、ということも、念を押さねばならぬほどだった。うちらにとっては「第一」はfirstで「第二」はsecondということは自明だが、普段日本語に接することのない人にはそれが通じない。報道記事でも混乱が見られ、御意見投稿フォームから事実誤認を指摘した記憶がある。
少しわき道にそれるが、英語圏では3音節以上の語は「長い」と感じられ、外国語の単語である場合は特に認識されにくくなる。中学のときに「比較級の作り方」で「長い単語はmoreをつける」と習っていると思うが、その「長い単語」が「概ね3音節以上」である(「音節」とは大まかに、「単語中の母音の数」である)。Fukushimaは4音節だ。しかも-shimaの語尾にはHiroshimaという超有名な「先客」がある。決して「わかりやすい単語」ではない(ネイティヴ英語話者はその綴りからどうしても「fワード」を連想してしまう分、逆にインパクトが強くて覚えやすくはあったようだが)。
話を元に戻すと、「福島第一原発」をFukushima No.1 Nuclear Power Plantのように《意味》を翻訳する方向性もなかったわけではないが、そうなるとFukushima No.2が「第二原発」なのか、「第一原発の二号機」なのかで混乱が生じる、といったようなことになり、「要するにFukushimaなんだろ?」というような形で記号化が進んだことは……誰か、実証してください。(それともすでに実証されているだろうか。)
だから、原発事故について、東北在住のある英語話者から「Fukushima, Fukushimaと連呼するな」といううんざりした声が上がったとき、私がTwitterでフォローしている在日の英語話者の間では「あの原発をFukushimaと呼ばないことは不可能なのに、何と無理な注文をつけるのか」と失笑が起きた状態だったが、仮に、「あの原発」がより限定的な地名で呼ばれていたら、"Fukushima" はここまで記号化はしていなかっただろうと思う。(実際、例えば "Kashiwazaki Kariwa" と "Niigata" は、英語圏ではあまり結びついていないと思う。)
実際、福島第一原発の事故は "the nuclear accident in Fukushima" などという形で認識されているが、その「福島」という地名には、あのエリアの外側が存在すること(むしろ、あのエリアの外側の方がずっと大きいこと)を前提としていない人に伝えることは、実は少し難しい。
その点を、『放射能とナショナリズム』はいきなり1ページ目(書籍ではp. 3)で乗り越えている。著者はレベル7の事故を起こした原発について、「TEPCO 1F(テプコ・イチエフ)」という表記を採用する。これは、双葉町や大熊町などの地元で実際に使われているあの原発の呼称で、事故後はかなり一般にも広まってきているが、事故前は、ただそこで作られた電気を(どこでどのように作られたかも知らずに)使うだけだった東京電力の顧客(私を含め)には、まったく知られていない「名前」だった。
そうして、「それ」は「その地方」に、「その地元」に、押し付けられ押し込まれていたのだ。「原子力 明るい未来のエネルギー」といったスローガンをつけて。
「地名」にスティグマを与えることについては、なるべく慎重であらねばならない。
例えば私がよく言及する「エニスキレン爆弾事件」だが、英語では地名をこのように使うことを避け、「戦没者追悼記念日爆弾事件」といった形の表記が取られることも多い。「ブライトン爆弾事件」は厳密には「ブライトン・グランドホテル爆弾事件」とすべきだろう。一方で、1974年のバーミンガムでの爆弾事件は「バーミンガム・パブ爆弾事件」と表されるが、この事件でぬれぎぬを着せられた人々については「バーミンガム6」という呼称がある(それを最初に使ったのは、おそらく、彼らの冤罪を晴らすために尽くしてきた支援者だと思うが……未確認)。北アイルランド紛争をめぐる「呼称」については、一度整理してみると興味深いかもしれない(卒論くらいにはなると思う)。
より近い例では、米国のコロラド州の映画館で起きた銃乱射事件について、映画館のある街の名前をとって「オーロラ銃乱射事件」とするのはよくないという議論があった。ただしその代替が、そのときにその映画館で行われていたのがバットマンの新作映画のプレミア上映だったからという理由で「バットマン新作銃乱射事件」であったことは、別の論争を引き起こした(映画へのスティグマータという問題)。結局は「コロラド州オーロラにおける映画館銃乱射事件」的な、説明調に落ち着いたのではなかったかと思う。あるいは実行犯の名前で認識されるような事件だったかもしれない。だが、多くの人にとって「オーロラ」という優美な名前の街がこの陰惨な事件で記憶されたことは間違いない。
アンネシュ・ブレイヴィクによるあまりに凄惨な殺戮の現場となったノルウェーのウトヤ島は、あの惨劇をそのまま引き受けることを選択したようだ。「忘れない、風化させない」覚悟がそのまま形になったようなモニュメントが作られることになれば、文字通り、物理的に風化するまで、あの島はあの惨劇を刻み込んで存在し続けることになる。(写真はモデル)
Moving monument in Utoya to the victims of Norway massacre v @JanNoHate http://t.co/QNnBS9ffrr pic.twitter.com/Io3Rn3a2fy
— Ben Ward (@Benjamin_P_Ward) March 7, 2014
記号化されてしまった場所には(場所にも)、人々の暮らしがある。その人たちは「記号」を生きているのではないし、「記号のために」生きているのでもない。そこではないどこかに帰る場所のある誰かの、「記号」を見たい、「記号」を確認し、《実感》したいという欲求を満たすために、そこに暮らしているのではない。
シリアの人々が、地政学の研究者や軍事マニアや歴史オタクのためにシリアに暮らしているのではないように、「被災」、「被害」は見世物ではないのだ。
この本については、まだ書くが、ここでいったん区切る。
※なお本稿には、万が一コピペ剽窃された場合に備えて、微妙な数値的間違いを入れ込んである。(言うまでもありませんが、「引用」はURLを明示していただければ何ら問題ありません。)
※この記事は
2014年03月21日
にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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