「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2014年01月31日

(ログ)1月30日(英国時間)のあの事件についての「リアルタイム」ツイート

先日、ブラディ・サンデーについて書いたときに、次のように述べたのだが:
※この「リアルタイム」は今年もやろうと思う。昨年は書くのもリアルタイムだったが、今年は前もって、タイマー設定で(Twittbot.netを利用)。


これが完全にはうまくいかなかったので、ログを控えておく。

うまくいかなかった原因は、短縮URLを使っている場合、Twittbot.netの画面で「140字」でカウントされていても、Twitter側でさらに「短縮」するt.coのURLによって、その短縮URLより文字数が多くなること。(まったく、実に余計なお世話だ。)

以下、ログ:




NICRAがベルファストで結成された5年後、デリー:









2014 / 1 / 31
00:45
現地時間1972年1月30日15.45(日本時間31日00.45)ごろ、デリーの公民権デモの本体は英軍のバリケードに遮られ、ロスヴィル・ストリートへと進路を変えた。一部参加者はそのままウィリアム・ストリートを進み、英軍バリケードへと向かった。http://is.gd/9186M9

→上掲の理由により送信エラー。
Status is over 140 characters.
https://api.twitter.com/1.1/statuses/update.json

00:50
……ウィリアム・ストリートで英軍と対峙したデモ隊は、英軍兵士らに対し投石などを行なう。対する英軍は放水車を投入する……そういった光景は、当時のデリーでは「当たり前」のものだった。何も、特別なことはなかったという。 http://is.gd/9186M9

00:55
1972年1月30日、アイルランドのデリー。現地時間15.55ごろ、英軍パラ連隊の兵士たちがウィリアム・ストリートの空きビルから5発発砲、15歳のデイミアン・ドナヒーと59歳のジョン・ジョンストンが負傷した(ジョンストンは同年6月12日死) http://is.gd/9186M9

→上掲の理由により送信エラー。
Status is over 140 characters.
https://api.twitter.com/1.1/statuses/update.json

01:00
1972年1月30日、アイルランドのデリー。このころには、ウィリアム・ストリートの暴動は終息しつつあり、人々は散らされていた。英軍は逮捕作戦の遂行許可を申請した。デモ参加者たちは、フリー・デリー・コーナーでの集会へと向かっていた。 http://is.gd/9186M9

01:10
1972年1月30日、アイルランド、デリー。16.10ごろ、ロスヴィル・ストリート・フラットのあたりにいた人々に対し、英軍の発砲が開始された。 http://cain.ulst.ac.uk/events/bsundaychron.htm http://is.gd/9186M9

01:25
"当時、この通りのこの辺にバリケードがあり、バリケードの向こうは「フリー・デリー」、つまり英治安当局にとってno-go areaだった。銃撃は、このエリアで行われた。" >拙: ttp://nofrills.seesaa.net/article/24928258.html

→ URLが正しくない。正しいのは:
http://nofrills.seesaa.net/article/249282958.html

01:40
1972年1月30日、アイルランド、デリー。16.40ごろには、英軍による銃撃は終わっていた。13人が撃ち殺され、14人が負傷していた。 http://cain.ulst.ac.uk/events/bsundaychron.htm http://is.gd/9186M9

01:45
Hidden Truths: Bloody Sunday 1972 http://138.23.124.165/exhibitions/hiden/default.html 1972年1月30日、アイルランド、デリーの写真集。 http://is.gd/9186M9

01:50
1972年1月30日、アイルランド、デリー。逮捕された人々は英軍基地に連行された。翌日には大半は起訴なく釈放されたが、基地で殴打され、バトンラウンド(プラスチック弾)の銃撃の中を逃げ回らされるなどしたと証言している。 http://is.gd/bpPOYj

01:55
17歳のジャッキー・ダディは、ロスヴィル・フラットの駐車場で英軍に撃たれた。その場に居合わせたエドワード・デイリー神父がラストライツを行なっているところの写真が残っている: 138.23.124.165/exhibitions/hiden/tour/11.html

02:00
…以上、1972年1月30日の「血の日曜日」事件をほぼ実際の時刻に合わせツイートしました。事件に興味がおありでしたら昨年作成した「まとめ」も。>2013年、41年目の「ブラディ・サンデー」に、「公民権」という言葉を手掛かりに。http://is.gd/9186M9










※英国は「時効」はありませんから、銃撃を行なったこれらの兵士たち(特定されている)は「殺人罪」に問われ得るという立場です。

※この記事は

2014年01月31日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:00 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。