「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2014年01月27日

42年目の「ブラディ・サンデー」を前に

1972年1月30日(日)午後、デリーで行われた公民権要求デモが英軍の発砲を受け、13人が殺された。いわゆる「ブラッディ・サンデー」(血の日曜日)事件である。

……と、毎年1月末になると書いていることだが、今年も書く。

「事件」の背景(北アイルランドの「公民権運動」について)と、「事件」のあらましについては、昨年(2013年)、下記のように「リアルタイム」でツイートしたものを中心に「まとめ」てあるので、そちらをご参照いただきたい。

2013年、41年目の「ブラディ・サンデー」に、「公民権」という言葉を手掛かりに。
http://matome.naver.jp/odai/2135935212510473301







※この「リアルタイム」は今年もやろうと思う。昨年は書くのもリアルタイムだったが、今年は前もって、タイマー設定で(Twittbot.netを利用)。

当初、「武装しており、英軍を攻撃しようとしていたので撃たれた」と説明されていた被害者たちは、実際には武装などしていなかった、ということが公に認められたのが2010年6月、長い時間と巨費をかけて調査され、まとめられたサヴィル報告書の公表のときだった。

それまで毎年、1月最終日曜日に行われてきた「あの日と同じルートを通る追悼の行進」は、サヴィル報告書という「けじめ」を見たあと、2011年1月に行われたのが最後となった。翌2012年には事件の真相究明に欠かせない役割を果たしてきた「ブラディ・サンデー・トラスト」から、「あの日」のデモの主催者のひとりでその後もずっと人権活動をしてきたエイモン・マッカンが退いた(BBC記事で理由を語っているので行間まで読んでもらいたい)。

よって、今年(2014年)はもう「追悼の行進」は行なわれないが、レクチャーやディスカッションのようなイベントは行なわれる。そのスケジュールが25日に発表されている。

今年は1月最終日曜日の週ではなく、1月30日(木)から2月2日(日)にかけて行事が行われる。

まず、1月30日、発砲のあった時間帯の午後4時に、ロスヴィル・ストリートのブラッディ・サンデー・モニュメントで、紛争で命を奪われたすべての非武装の一般市民のために、黙祷が捧げられる。その後、午後7時からはクレガン地区(ボグサイドに隣接)の聖メアリ教会で追悼のミサ。

翌31日は、毎年行われてきた「ブラディ・サンデー・レクチャー」に代わり、今年はパネル・ディスカッションでお題は……まだやるのーーー、「ハース提案をどう扱うか Dealing with the Haass」。パネルのメンバーは、元ジャーナリストで現パット・フィヌケン・センターのAnne Cadwallader(2013年に、治安当局とロイヤリストの抜き差しならぬ関係を暴く本を出した人)、SDLPのアレックス・アトウッド自治議会議員、シン・フェインからはショーン・マレーが出席し、宗教界からはthe Rev. Dr Lesley CarrollとDenis Bradley(ブラッドレーは2009年の、あの「イームズ・ブラッドレー案」の提案者のひとりである)。

2月1日(土)は、シン・フェイン青年部が企画するディスカッションで、テーマは「ブラディ・サンデーが各コミュニティに及ぼした影響」。ユニオニストからも、ディシデンツからもディスカッション参加が予定されているようだ。
http://www.derryjournal.com/news/osf-bloody-sunday-weekend-1-5831349

2月2日の日曜日には、ブラディ・サンデー・モニュメントで献花式と礼拝が行われる。

以上、土曜日以外の詳細は下記デリー・ジャーナル記事を参照。

42nd anniversary of Bloody Sunday
http://www.derryjournal.com/news/42nd-anniversary-of-bloody-sunday-1-5831357

で、この↑記事にあるのだが:
A spokesperson for the families said; “In respect of the agreement reached by the vast majority of Bloody Sunday family members in 2011, and the statement of that agreement re-released in the following two years and signed by over 100 family members of the deceased and wounded, in which they requested that there should be no more annual marches and mandated the Bloody Sunday Trust to continue to organise a commemoration of Bloody Sunday, the Bloody Sunday Trust have organised a series of events to mark the 42nd anniversary of Bloody Sunday.”

行間を読むと、胸が苦しくなる。事件被害者家族の「マジョリティ」がそう決めた。つまり、「マイノリティ」はそれとは別の意見を持っている。

北アイルランドのリパブリカンについては「マジョリティ」、「主流」は、武装闘争停止を決めたアダムズ&マクギネスのシン・フェインとIRAであり、「マイノリティ」、「非主流」は、武装闘争継続を方針とするいわゆる「ディシデント・リパブリカン」である、という図式がある。

が、実は以前から……1998年の和平合意をめぐってシン・フェインから32CSMが(IRAからReal IRAが)分派する前から、暴力を肯定しないが、アダムズ&マクギネス体制にも与さないというリパブリカンの「マイノリティ」は存在したし、リパブリカニズムというよりソーシャリズムで活動している人たちも存在した。「ブラディ・サンデー・トラスト」を長く率いてきたエイモン・マッカンもそのひとりだし、70年代、80年代はアダムズの盟友であったが、のちにアダムズの「過去」への不誠実な姿勢を含む問題点ゆえに袂を分かったかたちとなった故ブレンダン・ヒューズのような人も、「ディシデント・リパブリカンではないが、シン・フェインの主流派でもない」という立場だ。

だから、「マジョリティ=アダムズ&マクギネス側」、「マイノリティ=いまだに武装闘争してるディシデンツ」という単純すぎる二分法は、「事実」をまったく反映しない。

実際、2012年にエイモン・マッカンが「トラスト」を退いたのは「被害者家族の人たちの多くと意見が合わないから」だったが、それではマッカンが「ディシデンツ」と合流するかというと、そんなことは絶対にありえないし、実際に起きてもいない。

彼らの他にもちろん、「リパブリカン」ではないがナショナリストであるSDLPの人たちもいる。デリーのような小さなコミュニティでも、これだけ多様である。

2010年6月のサヴィル報告書で「殺された人々はみな、イノセントだった」と公式の記録で認められたことをもって「事件」が「終わった」のかどうか、どんなふうになれば「終わった」ことになるのか、事件被害者や遺族の間でも意見は一致していないし、今後もおそらく一致はしないだろう。

今もってくすぶり続けているのは、彼らを撃った英軍兵士(個人特定はとっくにできているが、マスコミでは名前は出されない)に法的責任を問うべきかどうか、問えるのかどうかという問題だ。これについては、2010年6月以降、何か月かに1度、「進展」がありそうなニュースがあっては、そのままぼんやりとしていく、といったことが繰り返されている。

これを推し進めるための働きかけは、もう事件被害者家族の団体が行なうことは、なかろう。



追記(27日午後5時台):
これまで毎年の事件の記念行事のスケジュールや事件関連資料をアップしてきたパット・フィヌケン・センター (PFC) の「ブラディ・サンデー」のページには、今年のスケジュールの掲載は、現時点ではまだない。が、デリー・ジャーナルの記事にPFCの名前も出ているので、直前になったら詳しいスケジュールが掲載されるのかもしれない。
http://www.patfinucanecentre.org/cases/bs/bsintro.html

※この記事は

2014年01月27日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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