「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2013年12月04日

「北アイルランド紛争は、グロテスクである」(スミスウィック特別法廷結論)

1989年3月20日、ボーダーの南側のDundalkで(密かに)行われていた南北警察会議に出席した北アイルランド警察(当時は王立アルスター警察: RUC)の警官2人が、帰路、ボーダーのエリアでPIRAの襲撃を受けた。IRAがRUCの警官がその日にそのように行動するということを把握したのはなぜか。その点についての真相究明のためにダブリン(アイルランド共和国)で行われていたのが、スミスウィック特別法廷である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Smithwick_Tribunal

スミスウィック特別法廷は、2003年、「北アイルランド紛争」の「ポスト紛争」のあれこれを仕切ることになった「外国人」(=非当事者)のひとりであるカナダ人の判事によって「行われるべき」と判断された「紛争」中の、「当局と武装勢力との結託」による事件に関する真相究明活動のひとつである。ほかに同様の真相究明が行われたのは、ロバート・ハミル殺害事件(RUCとロイヤリスト武装勢力)、メイズ刑務所でのイアン・ライト殺害事件(刑務所当局とINLA)、ローズマリー・ネルソン弁護士爆殺事件(RUCとロイヤリスト武装勢力)。判事はまたパット・フィヌケン殺害事件についてもインクワイアリの開催を勧告したが、これは開催のめどがたっていない。いずれにせよ、アイルランド共和国の治安機関(警察)とIRAの結託を対象とする真相究明活動は、このスミスウィック法廷のみである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Cory_Collusion_Inquiry

そのスミスウィック特別法廷が、証言の聞き取りを開始して2年半ほどで、最終報告書を公開した。

そのニュースが……貼りつけることしかできない。「はっきりした証拠はないけど、Collusionがあったと結論される」というもの。カナダ人判事が勧告したインクワイアリで、組織的なそれが「あった」と結論されたものが、ほかにあったか? もう、あたまぐるんぐるんである。これを真顔で。真顔で。





※以下、私のツイートは雑なメモ。私のTwitterのNIのリストのログはあるけど、非公開(公開できるほど整理できてなくて、関係のない話題もいっぱい入っていて危なっかしいので):
http://chirpstory.com/li/174636































※この記事は

2013年12月04日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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