「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2013年10月29日

「怒りを育て、実らせよう」とその詩人は綴った。

23日のシャンキル・ロード爆弾事件から30日のグレイスティール虐殺事件の間の1週間が終わろうとするタイミングで読んでいたのが、18世紀末のウィリアム・ブレイクの詩である。タイトルを「毒の木 (A Poison Tree)」という。

Songs of Innocence and of Experience

I was angry with my friend:
I told my wrath, my wrath did end.
I was angry with my foe:
I told it not, my wrath did grow.

And I watered it in fears,
Night and morning with my tears,
And I sunned it with smiles,
And with soft deceitful wiles

And it grew both day and night,
Till it bore an apple bright.
And my foe beheld it shine,
And he knew that it was mine.

And into my garden stole,
When the night had veild the pole;
In the morning glad I see;
My foe outstretched beneath the tree.


私訳:
ダチにムカっときたらよぉ、
がーっと言ってやりゃ、あとはすっきりさっぱりだがよぉ、
普段からムカついてる奴相手だと、
んなこたぁいちいち言わねぇよ。で、ますますムカムカしてくんだ。

でもってよぉ、内心ビクつきながらそいつに
水をやるわけよ、朝も晩も、涙を流してくれてやる。
次は満面の笑みだな、
腹に一物抱えたままで欺瞞の笑みを浴びせてやる。

そうすっとな、そいつぁでっかくなるわけよ
日ごとに大きくなって、真っ赤な実がなる。
奴はその実がきらっきら光ってるのを見て、
ははぁ、こりゃ見事なもんすね、あなたのですか、と

そうして、夜の闇が全天を覆うころ、
奴はうちの庭に忍び込んで、その実を盗むんだな。
そうして、夜が明けて 奴が木の下に転がってるのを見たら、
俺はにんまりするんだな。



※この記事は

2013年10月29日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:59 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼