「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2013年10月27日

日本の地震が「国際ニュース」になったとき(2013年10月26日早朝のTwitterのログ)

26日の早朝、かなり久しぶりに、「国際ニュース」になるような地震があった。金曜日の深夜/土曜日の早朝のことだ。
http://www.jma.go.jp/jp/quake/20131026021727395-260210.html
平成25年10月26日02時17分 気象庁発表

26日02時10分頃地震がありました。
震源地は福島県沖(北緯37.2度、東経144.6度、牡鹿半島の東南東290km付近)で、震源の深さは約10km、地震の規模(マグニチュード)は6.8と推定されます。


この地震について、日本国内で人々が揺れを感じたところから、津波注意報が解除されるまでのTwitterのログをとってある。北米の西海岸からも東海岸からも、タイからもアフガニスタンからも、「日本で大きな地震、津波のおそれ」といったツイートが流れてくるさまは、2011年3月11日の東日本大震災のあと、大きな余震が続いていたころのことを思わせた。

2013年10月26日午前2時10分の地震(タイムラインのログ)
http://matome.naver.jp/odai/2138272227172922401


この地震、マグニチュードが同日「03時13分 気象庁発表」で「7.1と推定されます」と修正され、一方で全世界規模で地震の観測を行なっているUSGS (US Geological Survey) では当初「M 7.5」としていたのをすぐに「M 7.3」と修正しており、ジャーナリストやそういった一次情報をモニターしてはTwitterで速報している英語圏の報道機関のソーシャル・メディア担当者やスタートアップ・メディアの人たちの間で「マグニチュードがはっきりしない」ということでも発言数が増えて、情報の量がかさばっている状態になった。

それに加えて、本当に久しぶりに津波の襲来が予測されたこと、しかも津波注意報が出たのが福島県浜通り――英語の速報ニュースでは単に Fukushima (以下、「フクシマ」と書きます)――であったことから、言及数は「爆発的」に増えた感があった。

このような場合に、英語で情報がどう広がるのか、私の見ているタイムラインはもちろん全体像ではなく一部であるが、何かの参考にしていただければと思う。

ともかく、画面の中での「日本オワタ」感はハンパなかったです。日本在住の英語話者の皆さんや、日本担当のジャーナリストの方々のみならず、普段は米国の内政の話をツイートしている人や、シリア情勢をツイートしている人まで……だったので。

アフガニスタンから:



ニューヨークから:



ワシントンDCから:



そんなわけで……



ともかく、この地震で特に被害らしい被害が報告されなかったことは、よかったと思う。

※なお、本稿においては引用の際に改行を変更した箇所がある。

※この記事は

2013年10月27日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 18:00 | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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