「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2013年10月23日

「彼らは白くない。僕は白いから」――バーミンガム連続テロ事件で逮捕されたウクライナ人の裁判開始。

今週、例のウクライナ人の裁判がロンドンで開始された。

「例のウクライナ人」とは、今年の英国での「憎悪犯罪(ヘイト・クライム)」、「テロ」事件で最も衝撃的な事件のひとつである、バーミンガム周辺での一連のムスリムに対する凶悪な暴力の事件で逮捕・起訴された25歳のPhDの学生のこと。事件と容疑者(被告)については、当ブログ7月のエントリに経緯などまとめてある。

2013年07月26日 バーミンガム、連続テロ事件(逮捕・起訴されたのは25歳のウクライナ人)
http://nofrills.seesaa.net/article/370338428.html


他のニュース(ウリッチでの英兵刺殺、王室メンバーの出産)に重なっていたことと、おそらく事件が起きたのがロンドンではなかったこと、また容疑者が英国で暮らしてきた人ではなく「英国の社会の問題点」を云々する余地がないこともあって、英国での報道は大きくない。こういう事件では必ずといっていいほどすぐに誰かがウィキペディアの項目を立てるものだが、攻撃のあった地名と攻撃のタイプで検索しても、容疑者(現在は被告)の名前で検索しても、項目はない。

上記7月のエントリにも書いてあるのだが、一連の事件のあらましはこうだ――4月29日(月)、バーミンガムのグリーン・レイン・モスクからの帰りに、82歳のモハメド・サリームさんが何者かに刺殺された。6月21日(金)にはウォルソール (Walsall) のモスクの建物の外にボムが置かれていたのが発見され、爆発物処理班が対処した。ラマダン入りした後の7月12日(金)にはティプトン (Tipton) のモスクで爆発があり、ネイルなどがまき散らされた。7月18日(木)にはウルヴァーハンプトン (Wolverhampton) のモスクで爆発の痕跡が確認された。ウルヴァーハンプトンの爆発物は6月27日の夕方に設置され、翌朝爆発したと警察(対テロ部門)は見ている、とBBC記事にある。(一連の経緯は、ウルヴァーハンプトンでの事件に関するBBC記事の末尾にある「関連記事一覧」でもたどることはできる。)

(ウィキペディアの項目がないと、こういう基本的なことをいちいち報道機関のサイトで調べなければならない。なお、起訴までのタイムラインは極右の活動を研究している方の個人のブログにある)

マップ:

大きな地図で見る

なお、5月22日にはロンドンで英兵が殺されており(7月12日は殺された英兵の葬儀の日だった)、6月以降の一連のモスクへのボム攻撃は、その事件への報復ではないかと懸念する向きもあった(私がTwitterで観測した)。が、この事件には、英国で活動している「反ムスリム」系(「反過激派」であろうと「反移民」であろうと「ホワイトパワー」であろうと)の集団は、特に関係なかった。

7月18日には、モスクのボム事件について、バーミンガムで25歳と22歳の男を容疑者として逮捕したと報じられた。この時点では名前は公開されていなかったが、「東ヨーロッパ人」ということは説明されている。

そして7月22日に起訴されたのが25歳のウクライナ人、パヴロ・ラプシン (Pavlo Lapshyn: カタカナはBBCの音声準拠) が、4月のモハメド・サリームさん刺殺事件で起訴された。この時点で既にラプシンは、モスクへのボム攻撃に関しても起訴されていた。

上記警察発表に詳しいが、ウクライナ人のPavlo Lapshynはモハメドさん殺害で起訴される前に、3件の違法行為で起訴されていた。1件はsection 5 of the Terrorism Act 2006での起訴(2013年4月24日から7月18日の期間において、ボムの材料調達、ボムる標的のリサーチなどを行なった)、2件目はsection 2 of the Explosive Substances Act 1883での起訴(6月21日のモスクに対するボム攻撃)、3件目もsection 2 of the Explosive Substances Act 1883での起訴(7月12日のモスクに対するボム攻撃)。詳細は原文参照。


……というのが7月の当ブログのエントリである。

今回、彼の裁判が本格的にスタートして(既に本人確認など法廷での最初の手続きは終わっている)、また報道記事が出ている(が、相変わらず、BBCのサイトでは扱いは小さい。同じことがロンドンで起きた場合はこんなものでは済まないだろう)。本人が有罪を認めており、裁判は短期で、早くも金曜日(10月25日)には判決が言い渡される見込み(量刑は多分そのあと)。

Mohammed Saleem stabbing: Man admits murder and mosque blasts
21 October 2013 Last updated at 20:06 GMT
http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-24614280


この事件で何よりショッキングなのは、パヴロ・ラプシンが英国に到着したのが4月24日で、人を殺したのはわずか5日後の4月29日、という点であろう。

「あなた、何しにイギリスに来たの?」といわざるを得ない。

ラプシンはウクライナの国立冶金学アカデミーの博士課程に在籍している学生で、学業では優秀なのだろう、ウクライナと英国の間で公式レベルで行われている(大使がセレモニーに出たりするような)産学連携プログラム的なもので英企業でプログラマーとしてインターンシップをすることになり、バーミンガムにやってきた。彼が派遣された企業は1970年代から3Dモデリングを研究している、この分野では老舗で、バーミンガムのムスリム・コミュニティの真ん中にある(BBCの映像より)。Google mapsで確認すると、会社の敷地は同じようなIT系企業の集まる一角にあるようだが、その周辺の、人が暮らしているエリアにはモスクが複数あり、ハラルのお店やイスラム教の慈善団体、おしゃれなアバヤのお店などが並ぶ商店街(酒屋もあるけど)がある。看板などから、バングラデシュの人たちが多いエリアのようだが、カシミール、パキスタンの名前もぽつぽつとある。通りにはこれ見よがしに聖ジョージ旗をはためかせた車もいたりする。(^^;)

ラプシンは職場の敷地にある寮に暮らしていたという。4月29日に彼がモハメド・サリームさんを背後から3度も刺して殺した現場(サリームさんの自宅から数ヤード)まで、多めに見積もっても、歩いて15〜20分くらいの距離だろう。

After his initial arrest for planting the explosive device outside a mosque in Walsall, he told police: "I would like to increase racial conflict."

When asked why he had targeted the mosque he replied: "Because they are not white - and I am white."

http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-24614280

(最初に、ウォルソールのモスクの建物の脇に爆発物を置いたとの容疑で逮捕された際、彼は警察に「人種間の紛争をもっと起こしたいのです」と告げた。モスクを標的にした理由について質問されると、「白くないから。僕は白いから」と答えた)


「人種紛争」の多くは、「俺らの町に入ってくるよそ者」に対する拒否感や嫌悪感から生じるものである。EDLなどが主張する「白人の街を、モスクやハラルの肉屋が侵略している」というイメージは、殺人の現場となったバーミンガム南東郊外のこの地域をGoogle Street Viewなどで見れば、賛同するかしないかは別として、情報として確認はできる。聖ジョージ旗をはためかせている車はそういった拒否感を表しているのだろう。

しかしこの事件では、東欧からやってきた「よそ者」が、到着して5日という、普通なら右も左もわからぬうちに、「白人でない者」を襲っている。襲われた人はずっとこの土地に暮らして子や孫を育て見てきた80代の高齢者だ。

この点については、ラプシンの行動のタイムラインを自ブログにアップしている研究者のAnton Shekhovtsovさんが、それ系のフォーラムからいくつかサンプルを持ち帰ってくれている。ラプシンが逮捕され、殺人で起訴されたあとのものだ。英国人が多いようだが、米国のアカウントや、ひょっとしたら北欧人かもしれないというアカウントもある。集められているのは、「よくやってくれたが皮肉だな」という調子だったり、「ウクライナ人にあそこまでやられたか。俺らももっと頑張らないと」という調子だったりする。

International neo-Nazis respond to the Pavlo Lapshyn case
23 July 2013
http://anton-shekhovtsov.blogspot.jp/2013/07/international-neo-nazis-respond-to.html

※書きかけ
→書いた。次記事参照。
http://nofrills.seesaa.net/article/378479863.html



【アップデート】10月25日に判決が出ました。
http://matome.naver.jp/odai/2138270844164719101

※この記事は

2013年10月23日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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英バーミンガム連続テロ被告のウクライナ人エリート学生は「内気で真面目」で、ティモシー・マクヴェイを偶像化していた。
Excerpt: 「書きかけ」のままになってしまった前記事(下記)から間が空いたので、新規にエントリを。 2013年10月23日 「彼らは白くない。僕は白いから」――バーミンガム連続テロ事件で逮捕されたウクライナ人の..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2013-10-25 08:26

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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