「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2013年10月16日

日本語の固有名詞は「英語として見たときにどうか」を前提としていない。そんな当たり前の発言で「差別主義者」と罵られた。

連日、ダマスカスからのニュースが入ってくる。非常に困難な状況の中、化学兵器の廃棄の地道な作業が進められている。これについて「信用できませんよ」とある人が言う。「騙すカス、なんですから……ガハハ!」

……というのは、先ほど(ヘソではなくガスコンロで)お茶を沸かしていて思いついた例だが、私が思いつく前に既にこの日本語圏のどこかに実在しているだろうと思う。そのくらいに、「ベタ」な「ダジャレ」である。

ダマスカス(アルファベットでDamascus)を「騙すカス」と置き換える類の「ダジャレ」は、どの言語圏にもあるような言葉遊びだ。「音」だけを拾い、それを自分の使う言語にそのまま当てはめて笑うのだ。昨年の今ごろ、DRCのニュースで出てきた「ゴマ」、「サケ」の地名に「おにぎりか」と反応したことは自分もある。日本語圏の人々の耳には「エロマンガ」と聞こえる島の名前や、「スケベニンゲン」と聞こえなくもない都市の名前は相当大きな話題になった。もっと直球で「エロ」としかカタカナで表記できない人名には多くの人が当惑しただろう(その結果か、「エロー」と表記されている)。

日本語の単語にも、「音」だけを拾ったら「英語では変な意味になる」ものはたくさんある。同音異義語が非常に多い「かんとう」(関東、巻頭、竿燈、完答、完投……)が「最悪の罵倒語」に聞こえるといってクスクス笑うクソガキ・メンタリティは永遠に不滅だし(ドイツの哲学者の名前もね)、「近畿地方」の「近畿」をそのまま名前にしたThe Kinki Kidsというアイドル・コンビ名は、名付けたのが英語になじみのある人である以上、「偶然です」と言い通すことは難しいだろう。

2011年3月以降、望ましくない理由によって世界中のお茶の間や職場やカフェに浸透することになった「福島」という地名も、「関東」や「近畿」と同じく、「英語では変な意味になる」。ただし、問題は音声(読み方)ではない。英語(および米語)の標準音声では「フクシマ」の音はさほど「オヤジギャグ」化しないだろう(イングランド北部などの、「ア」音が「ウ」音になる言語圏ではどうかわからないが)。問題は、字面である。

(「字面が問題」というのはわかりづらいかもしれない。来日中の英国の外相の名前は、テレビで「ヘイグ」と聞くなり、新聞記事で「ヘイグ」と読むなりするだけなら誰も何とも思わないだろうが、ご本人写真とHagueというスペルを見たら、その瞬間に「……!」と思う人は出るだろう。失礼ながら、そういうことだ。Hague氏のお名前と日本語の「禿」の間には何ら関係はないけれど、こういう「笑い」は生じてしまうのだ。)

正確に述べるなら、「福島」というより「福」という語そのものが、彼らの言語圏では勝手に「問題」になる。「福」をローマ字表記すると(実際には日本語圏ではF音ではなくH音で発音されているので、本来はHukuと書くべきなのだろうが)Fukuとなる。これが、彼らの目にはFuk-uと見える。英語圏であまりに自然な(ゆえに誰も疑わない)、自動的な文節の区切り方である(「文節」の概念は彼らにはないにせよ)。

Fuk-u. つまり、"Fuck you."

文字だけで見るとき、英語圏の人々はFukuが「フク」であるとは認識しない。「ふぁっく・ゆー」にしか見えないのだ。(ついでに言うと、英語圏の人々には「ローマ字読み」の概念もない。英語のつづり字と発音の関係の規則性のなさは悪評高いが、Fukという文字列を見て「ふぁっく」と読まずにいることは、彼らには難しいだろう。)

そこらへんまで説明していると長くなるので、もっと要点だけにしぼった「まとめ」を昨日作成・アップした。Fukuppyというキャラクターの名前が、英語圏ではFuck Upにしか読めない、という騒動についてである。(ただしそのキャラクターが日本国外を対象としたものではない以上、「英語では変な意味」云々と言ってみたところで「だから、何?」でしかない。じゃあ、iPhoneの「シリ」や、日本で売れそうな邦題をつけることが許可されなかったハリウッド映画の「シリアナ」はどうなんですか、という話だ。)

Fukuという綴りでいまだに子供じみた反応をするのがデフォの英語圏で発生した「フクッピー」騒動
http://matome.naver.jp/odai/2138181008226145201


日本語圏では「ピー」という語尾は「かわいいもの」につけられることが多いということまで説明しようかとも思ったが(これは「のりピー」の「マンモスうれピー」以降かなあ)、疲れたのでやめた。子供のころから「クーピーペンシル」とか「クッピーラムネ」のように「ピー」を含む商品には親しんでいるし、鳥といえば「ぴーちゃん」、留守電の音は「ピーという合図の音」だが、英語圏ではこの「ピー」自体がめんどくさい(90年代に多数出ていた「ネイティヴ感覚の英会話」についてのエッセイを見れば必ず書いてあるようなネタだ)。

どういう理由なのかfuckという言葉が好きで好きでたまらない英語圏では、「福」をネタにした「オヤジギャグ」は延々と続けられる。笑われる側からしてみれば「なぜ笑われるのか」というレベルの話だが、こういう頭を使わない「ギャグ (joke)」は、頭を使った冗談よりもしつこい。だが、一度や二度なら「ははは」で終わることでも、何度も何度も見せられると、仏の顔も三度まで。"The joke is not funny any more." である。

(「オヤジギャグ」がうざいのは、単にそれが「くだらない」、「つまらない」からだけではない。「しつこい」からだ。上司がコピー機を見るたびに「トナーをチェックしないトナー」などと言ってニヤニヤしているのは、ただそれが繰り返されるがゆえに、イライラ感を倍増させる。「もう、わかったから、黙っててください」という感情。)

しかも、You should have known better. な立場の人たち、つまり、アルファベットという粗雑な(失礼!)表記体系で "Fuku" とされてしまう日本語には「福」、「副」、「服」、「複」、「拭く」、「吹く」、「葺く」など多数の語があるということや、それらが「幸福」、「副大統領」、「服飾」、「複数」などなど、非常に多くの語の一部となっているということをある程度は知っているはずの人たち(日本語が使える人、日本にある程度住んでいて日本語に接している人)が、いつまでもいつまでもクソガキのようににやにやしながら「Fuku(ふぁっく・ゆー)」の「ネタ」を繰り返しているのは、スラングでいう「痛々しい」を通り越して、本気で苦痛を覚えるようなものになる。とにかく、「しつこい」。

そういう人たちを相手に「福」は「happinessとかgood luckを表す言葉だ」とか、「ふぁっくではなくフクと読む」といった説明をどれだけ重ねたところで、ほぼ無駄である。「だって可笑しいものは可笑しいだろ?」、「ネタだよ、何マジになってんの」。

昨日は、挙句、日本在住の英語圏出身者に対して、クソガキじゃあるまいし、「福」という語の「意味」くらい把握しろ、ということを言ったら、racist呼ばわりされた。そのことも上記「まとめ」に含めてある。

日本語の言葉なのだから日本語として把握すべきと主張することと、日本語の言葉に英語の基準を当てはめて笑うことのどちらがracistなのか。

イラク戦争のときにイラク人の人も言っていたが、他者の領域に乗り込んできておいては自分たちの基準でしか世界を把握しようとしないというこの態度が「帝国主義」的なのである(本人たちは自覚していないし、アジア人から「帝国主義」などと言われると「アカがうるさい!」と反発するのだろうが)。



なお、このFワードが、英語圏では(使う場面は選ぶにせよ)本当に日常的に使われるものであるにもかかわらず(英王室の人も使う。使うと新聞ネタにされるかもしれないけど……アンドルー王子とか)、なぜあんなにまで人々を「くすくす笑い」させるのか、私には実のところ全然理解できない。理解できないのは「子供のころに親や教師に言われたこと」などの、《言葉をめぐる社会の中の共通体験》がないからだろう。

なぜああいう反応を呼ぶのかについて、Fワードの《意味》がどうたらこうたらという理屈をこねることはできるが、実際に用いられる場面では《意味》など完全にそぎ落とされた、ただの「罵倒語」、「感情を示す感嘆詞(インタージェクション)」である。(日本語の「無理やり使う卑猥語」とはそこが全然違う。この《意味》のなさは、日本語で言うなら、90年代〜00年代の流行語にある「非常に」の意味の「鬼」に近いかもしれない。)




なお、英語圏から妙な言いがかりをつけられた形の「フクッピー」は、名前を変えるそうだ。「ことなかれ」な感じの、非常に「日本的」な対応だと思うが、ひょっとしたら福島工業さんはこのキャラクターを引き連れて英語圏へ進出することを考えていらっしゃるのかもしれず、その場合は「賢明な対応」と言わざるをえない。


※この記事は

2013年10月16日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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