「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2013年09月13日

オマー爆弾事件についてのインクワイアリーは行なわない、と英国政府が決定した。

オマー爆弾事件については、ニュースがあるたびに消耗する感覚だ。「消耗する」というより削り取られるような。本当に、「終わり」がない。「終わり」が見えない。「終わり」のかたちすら、見えない。それが15年、続いている。

傍観者でしかない私にとってそうなのだから、当事者(あの爆弾で殺された人々のご家族や負傷させられた人々)の心中いかばかりか。

……という前置きに続くのは、もちろん、「悪いニュース」だ。マイケル・ギャラハーさんら被害者遺族・家族会が要求し続けてきたパブリック・インクワイアリーの可能性が、消えた。No public inquiry into Omagh bomb.





BBC NIは、キャプチャをとるタイミングが遅れてしまったのでトップニュースが差し替わっているのだが、やはり「オマーのインクワイアリなし」はトップニュースだった。



2010年にキャメロン政権が発足してしばらくは、「この若き新首相は北アイルランド(の過去)に対して過去の保守党トップとは違う態度を取っている」という印象を与える出来事が続いていたが、その「清新さ」もどんどん弱まってきて、マリアン・プライスの根拠不明・意味不明な拘束があったころからはかなり怪しくなってきた。パット・フィヌケン事件のインクワイアリは、いったんは行なうことで水面下で合意しながら最終的には行なわないとの結論を出し、そして今回はオマー爆弾事件だ。

テレサ・ヴィラーズ北アイルランド担当大臣は、ほとんど意味の分からないおためごかしをのたまっている。つまり「ご家族が既に把握しておられること以上のことは出てこないのだし、インクワイアリを行なえばその過程で古傷をえぐることになる」と(ポルポト裁判の妨害者がよくこれを言うんだよね)。

'No justification' for new Omagh inquiry - Theresa Villiers
12 September 2013 Last updated at 11:31 BST
http://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-24065122
Theresa Villiers told BBC News that, given the "extensive series of investigations", a new public inquiry "wouldn't tell the families more than they already know."

ええ、だからね、それを「公式の記録」にしなければならないんですよ。

この決定を聞いた遺族会のマイケル・ギャラハーさんらは、「想定内だ (not surprised)」と反応し、「まだまだ、終わらない」という決意を示している。

Omagh bomb: Families of victims vow to take British government to court after ruling out public inquiry
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/northern-ireland/omagh-bomb-families-of-victims-vow-to-take-british-government-to-court-after-ruling-out-public-inquiry-29574078.html
Stanley McCombe, whose wife Ann was killed, said the anger he felt at the Government's decision would drive him onward as the families proceeded with legal action.

"If they want to try and hide the truth about Omagh, they can," he said.

"But we'll flush them out at the end of the day. There are no hiding places.

"It's a democratic country and people have to know the truth."

Michael Gallagher, whose 21-year-old son Aiden died in the August 1998 blast, added: "We'll do our talking in court."


ヴィラーズ大臣による発表があった直後からのニュースは下記に。アムネスティ・インターナショナルNIやWAVEのツイートをまだ追加しなければ……なのだけれども。

オマー爆弾事件、真相究明のインクワイアリーの道が閉ざされた。
http://matome.naver.jp/odai/2137898293492522901


んで、そろそろ「ありもしないcollusionを追求する無駄」みたいな話になってきているのだが、政府が記録を公式なものにしようとしていないという事実を前に、その主張はどこまで妥当性を有するものか、私にはわからない。

Last month families who belong to the Omagh Support and Self Help Group outlined details of an independent report they commissioned into alleged intelligence failings in the lead up to the atrocity and with the subsequent criminal investigations.

They had handed the document to the authorities in London and Dublin a year previously and complained vociferously at the length of time the respective governments had taken to respond.

Mr Gallagher said he was "disappointed but not surprised" that ultimately the British Government had now come back with a negative response.

http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/northern-ireland/omagh-bomb-families-of-victims-vow-to-take-british-government-to-court-after-ruling-out-public-inquiry-29574078.html


※この記事は

2013年09月13日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼