「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2013年07月26日

約2100万人のうちの、(控えめに見積もって)「10万人」、「170万人」 #シリア

25日のガーディアン。





25日の大きなニュースのひとつ。「170万人」にせよ「10万人」にせよ、控えめな数値だろう。(「170万人」には国内避難民 IDPは含まれていないし。)






その前の日。ヨルダンのザアタリ難民キャンプが「街」化しつつある光景。




シリア内戦で「死者10万人」を突破したとの国連の発表を見ている横では、今日もまた、「誰それが殉教した」という報告が流れてくる。「ただの数字ではない」。それぞれに名前と顔と生い立ちがあり、家族があり、友人や仕事や、希望や落胆がある。



「数日前に亡くなった@saif_hurriaの友人で、活動家でFSAの戦士であるアブー・サマが殉教した」。そう淡々と報告しているように見えるこのアカウントの主は、ホムス出身の在外シリア人、ローズさん。自分のいる場所(英国)で支援活動を組織し、昨年9月にはトルコ側国境のすぐそばにあるシリアの国内避難民キャンプ(国境の外に出た国連支援のある難民キャンプより、さらに環境は悪い)に支援物資を持っていくなどしていた。親しい人たちや親戚の人たちを、もう、ずいぶん多く亡くされている。

上記ツイートで「数日前に亡くなった」とある@saif_hurriaさんは、ホムスの「市民ジャーナリスト」のひとりだ。私も、そしてシリア情勢に注意を払ってきたあなたもきっと、彼のビデオ報告の1本や2本は見ているはずだ。




これは昨年9月、ホムス旧市街のキリスト教の教会が破壊されているという報告。




イラク戦争で、Lancet誌が「死者は10万人を上回っている」との調査研究結果(米ジョンズ・ホプキンス大学の研究者らによるもの)を掲載したとき、当時私が見ていたネット上の空間は、 "That's impossible" という(感情的な)反駁であふれ返った。TwitterやFBはもちろん存在もしていなくて、ブログのコメント欄やフォーラム(日本でいう「BBS、掲示板」)だったが、もし当時Twitterなどが存在していたら、「この調査は間違っている」とか「ジョンズ・ホプキンス大というだけで信じるんですか。権威主義ですね」といった言葉の《量》は、あんなものでは済まなかっただろう。

(と思いつつ、ランセットの「イラク戦争の死者10万人」の報告はいつのことだったか、と日本語圏で検索すると、ちょっと見た程度では、報道記事らしい記事は「しんぶん赤旗」くらいしか見つからない。2004年10月。11月のファルージャ包囲攻撃の準備が進められていたころだ。なお、その2年後の2006年10月には、同じくランセットでの報告で、ジョンズ・ホプキンス大学の研究チームは「65万人」という数値を出している。【日本語での参照情報】)(英語では普通にBBCやガーディアンのサイトなどで掘れば出てきますが、今はそれは本題ではないので……)

で、「シリア内戦での死者10万人」という国連の数値について、TwitterやFBのような「装置」がある中で、どのくらいの言葉が出たか?

たまたま私が見た/見ていなかったタイミングや、どれほど自発的にそれらの言葉を探したかという点で、上の「ランセット誌でのイラク戦争死者10万人」のときとはまるで異なるので比較にもならないのだが、「シリア内戦での死者10万人」という国連の数値については、「ほとんど誰も、何も言っていない」という印象は、否定しがたい。

確かに、ほかに大きな、緊急性の高いニュースと重なっていた(スペインの列車事故)。シリア内戦を取材していたような国際メディアの記者が、朝鮮戦争停戦60年のイベントのために北朝鮮に入っているというタイミングもある。

そういえばこんな写真がツイートされてたんだった。




7月10日、11日に私の見ているTwitterの画面上で最大の話題となっていた記事より。アレッポで取材を続ける「外国のメディアで書いている外国人記者(フリーランス)」の、赤裸々としか形容できない記事。(これを「メディア批判」という方向で評している意見も見たが、違うと思う。ここにあるのは、「批判」などではない。単なる「絶望」、単なる「人間性の極限」だ。)







「恥を知れ」という言葉の背景には、「世界は私たちのひどい境遇を見て、そして何もしない」、「ジャーナリストは私たちのひどい境遇を記事にして写真におさめて、そして報酬と名誉を得る」という認識がある。

そして、実際にはジャーナリストは、大した報酬は得ておらず(この記事を書いたイタリアの記者の場合、1本70ドル。必要経費もろくに賄えない)、名誉を得るのは大勢の中の一部だけである。

そういう中で、アサド政権側によるヴィザ発給制限などでジャーナリストがシリア国内に入れなかったころ(トルコ国境の「解放」前)、「蜂起」(「内戦」移行前)を伝えるために家にある撮影機材を持って街に出たような「市民ジャーナリスト」が実情を伝えていた。そこにはむろん「それが誰なのかはっきりしない」という余地があり、誤情報・デマ(日付や場所についての嘘をはじめとして)も横行していたけれども、少なくとも、「戦闘は起きていない」、「交戦は生じていない」、「テロリストが襲ってきたので応戦した」という政権側の言い分が本当に正しいのかどうか、それぞれに判断する手がかりを、彼ら「市民ジャーナリスト」はふんだんに与えてくれていた。

そういう環境があっても、「知る」権利がある程度保証される環境が全世界規模で(と書くと「インフラのないハイチやネパールでは確認できませんよ?しょせん、先進国のお遊びですよ?」という薄っぺらい反応が返ってくるものだが、「全世界で」と「全世界規模で」の違いくらいわかるよね)実現された中でも、これほどの規模で人が人を殺している、という根源的な「悪」の状態は、改善されないどころか、一時的にでも止めることすらできていない。

2009年、イランで選挙の不正疑惑が大きなうねりとなったとき、なぜイランとは縁もゆかりもない人たちまでもが「オンラインで情勢を見守る」ように動いたかというと、「目」があるところではひどいことは行なわれにくい、という「鉄則」のようなものがあったからだ。イランに限らずどこでも、外部の人の目のない「密室状態」が作られることは、単にそれだけで「よくないこと」だったし、今でもそれはそうだ。(2007年のビルマなど参照。)

しかし、だからといって「目」さえあれば、惨事は避けられる、というわけではない。

2009年のイランでは、まだ「目」が機能していた。弾圧の当事者にとってembarrassingなことがあれば、それを広く伝えること(多言語化を含め)は、抑止力として一定の機能を果たしていた。

2011年以降のシリアでは、もはやそうではない(エジプトでもかなり、ひどいけれど、暴力の質がシリアはもう……)。「目」があったところでおかまいなしに、村がまるごと標的にされて村人たちの喉が切り裂かれ、頭をブルドーザーか何かで潰され、そのまま放置される。地下室に逃げ込んだ女や子供30人くらいが全員、惨殺されているような状況が、生じる。

そういうのが2年半近く続いた中での「10万人」という数値である。

※この記事は

2013年07月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 12:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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