「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2013年07月25日

情報の「正しさ」だけでは「信頼」は築けないということ。69文字も余裕があるときに「自分の意見を書くために元ツイートを削った」と言われても…

誰が何と言おうと、「正しい」情報というものはある。例えば「5+5=10」は、誰がそう言っているかに関係なく(少なくとも十進法の世界では)「正しい」。「東京では、8月は5月に比べて暑い」とか、「雨が続いたので葉物野菜の価格が高騰している」とか、「チームAとチームBの今日の試合は、1−1の引き分けだった」とか、日常、何らかの「メディア(媒体)」を介して接する情報の多くは、そういう「事実として正しい」(事実に照らして正確な)情報である。

しかしそうでない場合も、また、多くある。「事実」ではなく「意見」、「見解」が述べられるときだ。最近では「エジプトで起きた政変はクーデターではない」が最たる例である。また、それらの中には、2003年5月の「イラク戦争終結宣言」や日本での「冷温停止状態」のような「事実を誤魔化すための言葉(のマジック)」も含まれる(人によっては「誤魔化しているのではなく、再定義している/これまで定義のなかったものを新たに定義している」と言うかもしれないが)。

そういう中で、「信頼」が損なわれている。(単純化した、わかりやすい言い方では)「メディアはうそばかり」と(多くの)人々が思っている。そのときに「いや、うそばかりではないです」と「うそではない」事例を挙げれば納得する人もいるが、既に「不信」を抱いている人はそのような態度には「言い訳ばかり」と憤りを募らせるだろう。「信頼しないあなたが悪い」、「あなたが信頼しないのは知識が足らないから」etc etc言われても、既に「不信」を抱いている人を納得させることは、たぶん、できない。

以前なら、「不信」を抱いている人は孤立していたかもしれない。けれども、ネット(特にSNS)で「つながれる」ようになって、「家族は、お前の気のせいだと言って取り合ってくれない」的な孤独な人同士が互いを発見し、「自分だけじゃないんだ」と確認することができるようになった。(このような機能が、いわゆる「アラブの春」の大衆運動が起きる上で、大きな役割を果たしたことは、2011年に既にテレビのドキュメンタリーや各種論考で述べられていた通りだ。)

その中で、「不信」は、軽減されることもあるかもしれないが、どちらかというと軽減されるより、強化されることのほうが多いだろう。他人の口から「また○○か」、「やっぱり△△はダメだな」といった言葉だけが出ているような場では、たとえ自分が「でもこういうところは良い方向に評価できる」と思っていたとしても、そう思う自分の感覚がおかしいような気がしてくる(ちょうど、家族に「お前の気のせいだ」と言われたときに、自分の感覚がおかしいと感じていたように)。

調べもので、いわゆる「陰謀論」系のサイトをしばらく見ていたことがある。自分は自分の根拠があってそれら「陰謀論」を「バカなことを!」と一蹴していたが、あんまりずっと見ていると、ずっとそれらの言葉にさらされていると、ときどき、「おかしいのは自分の方か」という感覚にとらわれる。そういう時はその場を離れて(ブラウザのタブを閉じて)、それらの「陰謀論」を論破している文章を読んで、感覚を取り戻す。でないと、引っ張られる。

最近、個人的に「うは」と思ったのは、「ムスリム同胞団のバックはアメリカ」という(「オバマは隠れムスリム」系の)陰謀論だが、それがどんなにばかげたデタラメであるとわかっていても、あまりにそんな話ばかり聞かされていると感覚がおかしくなる。

「言葉だけ」の空間ではそういうことがよくある。

そういう空間で、安心感を取り戻せるのは、「正しい」情報、「信頼できる」情報に接したときだ。

その場合、その「正しい情報」とは、冒頭に述べたような、"誰が何と言おうと、「正しい」情報" であり、"誰がそう言っているかに関係なく「正しい」" 情報である。

では、混乱した「言葉だけ」の空間の中で、誰かがそのような「正しい情報」を言っていたら、混乱している私は、その人のことを信頼できるだろうか。

信頼できる場合もある。というか、それがほとんどだ。その人に、言葉を使う人として当たり前の誠実さがあれば、「正しい情報」を伝えてくれる人のことは、私は信頼できる。

しかし、誠実さがなければ、信頼はできない。逆に「不信」を抱く。

今日の昼間、Twitterの140字で断片の連なりで述べたのは、そういうことである。

それが断片のままになっている状態を私は好ましいと思わないので、ここで一か所にまとめておくことにした。

なお、それぞれの話者を「さらす」意図はないので、下記の画像内では(私のアカウントを除いて)Twitterのアカウント名は最初の2文字を除いてぼかしてあるし、名前はすべてぼかしている。

画像では読めない(テキストを読み上げている)、という方は、下記URLでTwilogからどうぞ。(retweeted at 15:33:08から、posted at 15:47:37まで。および、posted at 16:37:25から、posted at 16:45:29まで。)
http://twilog.org/nofrills/date-130725/asc



140字書くことのできるスペースで、71文字しか使っていないのに「自分の意見が書けないので元の内容を消した(部分引用と明示せず、部分引用した)」とおっしゃっている件のツイッターユーザーさんを私はフォローしていないが、その方がふだんから言っていることは、私がTwitterで親しくさせてもらっている何人かの方のRTなどや、Togetter的な場で拝見する限りは、"誰がそう言っているかに関係なく「正しい」" 情報であるように見受けられる。

しかしながら、私はこの方を信頼することは、絶対にできない。逆に、この方の発言であれば(本当は全然別の話を、ゆがめて伝えているのではないか、というように)あらかじめ疑っておこうと思うようになってしまった。

だいたい、このようなセンシティヴなトピックで、「Aだが、Bである」という文から「Aだ」だけを抜き出すという、おそろしく人をバカにしたプロパガンダ手法が使えてしまうということ自体、私の理解の及ばぬところである。

(「Aだが、Bである」の型では、話者が言いたいのは「Bである」の部分だ。「お昼だが、お腹がすいていない」と誰かが言う場合、その人は「まだお昼ごはんは食べずにいようと思う」などと言いたいのであるし、楽しいイベントの当日に「風邪を引いているが、薬を飲んだので熱は下がった」という人が、そのイベントに参加せずに家に帰って布団に入るとは考えられない。こんなことは、小学3年生くらいの言語力・論理力で十分にわかるはずであるが、なぜかこの「Aだが、Bである」から「Aだ」だけを抜き出すというパターンのプロパガンダが行われることが多いのだ。)

※この記事は

2013年07月25日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 21:30 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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