「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2013年06月05日

6月4日、海の向こうでは「巨大アヒルちゃん」が検索できず、トランプやレゴの写真がいくつも(縦読みもあるよ!)

6月4日だった。自分の見ている画面に表示されていたものを中心に、「まとめ」た。

2013年の「天安門事件」の日に、中国のネットで話題になったのは……
http://matome.naver.jp/odai/2137033359170245601


当時の写真をエンベッドしようと、「NAVERまとめ」についている「画像検索(Google)」で探すともれなく日本で「トクア」などの用語を使っているブログなどが出典となってしまう感じだったため、別にタブを開いて英語を使って画像検索した(つまり、上記「まとめ」は「ネトウヨfree」である)。World Press Photoのアーカイヴの写真などが検索結果として表示された。当時見た記憶のない写真だった。

さて、今年のもの。

これ、すごいなと素直に感心した。




中国の外でもバイラルした「あひるちゃん」のコラ写真は、ガーディアンも(小さく)トップページに持ってきていた。



そのあと、「巨大あひるちゃん」というワードが中国のネットで検索できなくなったそうだが、そのこととこのコラ写真との関係は立証されていない(関係があるのではないかという噂はある)。香港の巨大アヒルちゃんの「アート」の作家さんが、そのブームに乗って中国全土に出現した「“偽物”の巨大アヒルちゃん」について米WSJ紙で不快感を表明したので、「おまえら『巨大アヒルちゃん』であんまり調子づくな」という当局の意思が明示されたことによる可能性が高いと@is_say_no_sayさんが指摘されている

(あの「巨大あひるちゃん」の「アート」で、「作者」が「独自性」というか "the real thing" 的なものを主張しているふうなのには、心底がっかりした。そういうことを言っちゃったら、じゃあ、あなたはあの形状をどっから持ってきたのか、という話にならざるをえない。)

1989年当時はまだ「英国」だった香港では、当時も天安門事件の報道は行なわれていたが、中国の一部となった現在もまた「追悼行事」が行われるなどしている。




香港のテレビ局では、株式市場ニュースの画面の下に出てくるテロップというか、アンケートの選択肢を縦読みさせてみたりも(漢字文化圏!)。




でも、最も「すげ〜」と思ったのはこれ。




ツイート主さん(英語圏の人)は漢字が読めないのだろう。気づいていないようだが、「日本は第二次大戦中のその蛮行を正視し」云々の、中国での「愛国スローガン」に添えられた画像を表示させると、これが出てくるようになっているわけだ。


※この記事は

2013年06月05日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 13:37 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼