まったく面識もない、どんな人なのかも知らない、ネット上であいさつした程度で、会話したこともないような人から「絡んでこられた」。「やめてください」と抗議をしてもしつこく、さらに抗議をすると、その相手は「難読」であるという。つまり本人には何ら悪気はないのだそうだ。
事実なのだろう。だが、私にはそれを許容するキャパなど、ない。
先方は、「このような具体的な事例を通して私は勉強しています。ありがとうございます」的なことを言う。
冗談ではない。いちいち書いていないが、先方が勝手に「勉強」している間に、こちらはトイレに駆け込んで胃液を吐いていたのである。そもそもそんなこぎれいな社交辞令が操れるのなら、「難読」を "言い訳" にするだけの言語能力、コミュニケーション能力があるのなら、こちらの疑問文に応答せよ、と。(先方は、自己主張ばかりを繰り返し、当方の送信した、誤解の余地のない「〜ですか」の形の疑問文はすべて無視していた。)
……こんなことばかり書いてると自分がバカみたいだが、書かないと終わりにできないので書く。
何が言いたいかというと、「私だって『人間』である」ということだ。
"私は「陰謀論者」ではない" というエントリの末尾に追記したときに、私はさらに異様な一段を付け加えた。文中での「たとえ話」について、「単に思いついただけでそれについて別に関心はない。思いついたということは関心がゼロではないのだが、そういう話はするつもりはないので、Twitterなどでもこの項をネタにそういう話をふってこないでほしい」という内容だ。
なぜこのようなことを付け加えたかというと、そのような「たとえ話」がきっかけで勝手に「雑談の相手」にされ、挙句、こちらが消耗するということが、過去において何度かあったからである。それも知り合いでも何でもない人から。
5月末、私を襲ったのは、きっとそういう事例だったのだろう。
その人のことは、Twitterのユーザーネームの最初の文字を取って、「Cさん」と呼ぶことにする。
「以前ブログを読んでいた」というCさんのメッセージが私の見ている画面に初めて表示されたのは、5月21日だった。10年もブログをやっていれば時々いただくようなメッセージだ。そしてそのようなメッセージをいただけば、こちらは「また読みに来てください」とお返事する。それでひとつの「挨拶」のやり取りである。特にその相手のことを私が知りたいと思っているわけでもないし、相手の人が私のことを知りたいと思っているとも思わない(ということが、通じない人がいるので、書いておく。私があなたに返事をしたからといって、私があなたに関心を抱いているわけではない)。
そしてそのときのやり取りは実際にそのように進んでいる。

ここで、私は特に、Cさんに対する関心は特に示していない。このあとは、ネットで「普通に」ある、「ネット上の書き手と読者」という関係が続くのだろうという前提は意識下にあったかもしれないが、Cさんと「雑談」のできる間柄になりたいなどという気持ちは示していないわけだ。
一度挨拶を交わしたからと言って、知り合いではないのだ。
Cさんから次に接触があったのは31日のことである。
私は、ただでさえ消耗していたところにふりかかったCさんとのこのやり取りで、完全に疲弊した。
「消耗していた」というのは、「東日本で心不全が多発している」という説を、統計的な裏付けもなにも取らずにただ垂れ流している連中に対する批判を行なったところ、その批判に対するいわれのない批判が寄せられたことが原因である。(批判を行なうため、連中のガセ言説をそれなりに検討しただけでも、十分に消耗していたが。)なお、その件は解決済みである。
その話題で当方があれこれ対処している最中に、Cさんが「横から絡んできた」のである。

誰かが「急性心不全で死亡した」と発表されたときに、"「心不全」という死因はない" と声を掛けてくるということは、ロジックとして、その死亡した誰かは発表されているのとは別の原因で死んだのだろう(本当の死因を言わずにいるのだろう)、と言っているのと同じである。(実際に、「表向き、急性心不全ということになっているが、実は自殺である」といった言説がいかにあふれていることか。)
それに対して「関係のない話題なので、やめてほしい」と要請したところ、Cさんは「なぜ感情的になるんですか」と言ってきた。あとから考えれば、おそらく、Cさんはそれがなぜ「関係のない話題」なのかがわからなかったのだろう。(Twitterでそんな人に話しかけられることを、当方は想定していない。)
人が「怒っている」と明示しているばかりでなく、誰の目から見ても明らかに「ピリピリしている」ときに、なんで知り合いでも何でもない、昔ブログ読んでましたって言ってきた程度のつながりしかない人に、いきなり「感情的」などと言われなければならないのか。私には「感情的」になる自由もないのか。怒りの原因も明示しているときに。
あとからわかったのだが、Cさんには、人に対して「感情的になっている」と述べることが、無神経なことであるとか、侮辱もしくは挑発になる(「自分は冷静である」というアピールである)という認識がないようだ。そのような認識が、おそらく、できない。
いくらかの不快極まりないやり取りを経て、Cさんは「自分は難読である」と言った。

「ご家族の件も僕が持ち出した話ではないです」とかいうのも、心底ふざけんなと思ったが(こっちが書いてることを読まずに、てめーが好き勝手に話ふってきてるだけじゃねぇか、と)、「難読なので」の前には、私の怒りは根拠も正当性も失う。相手は、何もわからないのだ。
それどころか、こちらとしても、知らなかったとはいえ(難読であることはプロフィールにも書いてないし)、こちらが原因でCさんにいやな思いをさせてしまっているのではないかと心配になる。
ちなみに、「難読」といっても内実は多様であるが、私はここでCさんに「どのような難読なのか」を訊いていない。友人になろうという気があるわけでもなく、知り合いでもカウンセラーでもない人間が、そんなつっこんだことを知ろうとするべきではないし、そんなにしょい込みたくない。ただしCさんがある程度は読めることは明白なので、まったく読めないかのように接するのも失礼である。
しかも実際、私が誰宛てにしたわけでもないツイートに、こんな反応をしている。これは、Cさんが私のツイートを「読んで」いることの証拠である。

Cさんの反応は、要は、独り言の形式をとった「ぼくは普通じゃないんだ・・・」という反応。私への@つきで。
こんな反応をされたら、「健常者」としてもう少しは丁寧にフォローしておこうかと思うのはおかしなことではないだろう。ゆえに、先に“当方はそんなことを「知らない人との雑談のネタ」にしたいと思っていません”と述べたことについて、私は“「普通に読める」人であっても、「死因」などという微妙なことで、知り合いでもない他者に話しかけてきたりしないものでしょう”と言い換えて(リフレーズして)、Cさんにメッセージしている。
それについてのCさんからの返事は、またぞろ「ぼくは普通ではない」である。

私のせいで「普通ではない」の思考のループにはまらせてしまったかと心配になった。
というか、こっちも心理的に限界である。
失礼なことをされたと頭に来ているのはこちらだというのに、どうして先方の「ぼくは普通じゃないから」語りを聞かされねばならないのか。
「感情的である」などと“侮辱”された「被害者」は私なのに、なぜ「加害者」のことを考えねばならない。うにゃ。「加害者」本人にはそれが「加害」であることがわかっていない。
この憤りを押さえつつ(どうせ、説明しても、理解されない。説明を試みることすら、まったくの無駄である)、きっかけとなった "「心不全」という死因はない" ということばが、なぜこのような場合にはふさわしくないのかは説明すべきと感じた。でなければこの人はまた「ぼくは普通じゃないから」で結論してしまうだろう。常にそこに逃げ込んで、何とも向き合わない。(そういう事例は、子供が相手ではあるが、知らないわけではない。)
そこで、あなたはどういう場合にそのようなことばを耳にするのか、と質問した。
そのときは、「そのようなことは親族や友人でもない限り、誰かの死に直接接している人に言うべきことではないのだ」という結論をつけて、「じゃあおやすみなさい」で終わると思っていた。
しかし、私の問いかけに、返事はなかった。
代わりに、「ぼくは悪くない」、「ぼくには理解できない」という主張がまたなされていた。

「書かれていたことだから話してもいいだろう」とCさんが考えていたようなので、“「私は書いた以上のことは、知らない人には、話したくないですよ」ということです”と、「知り合いでも何でもない奴が、なぜそこまで無神経に踏み込んでくるのか」という怒りを抑えて説明したが、これにも返事はなかった。
それでいて、Cさんのこの件についてのツイートは、数時間後もまだ続いていた。
Cさんの中では「自分は普通じゃない」がループしているかもしれないが、この時点で、私は、Cさんの耳は、聞きたくないこと、答えたくない質問は聞こえないようになっているのではないかとすら疑っていた。
何しろ、人の質問は無視(スルー)しておいて、自分の発言は一字一句違えられたくないという意思表示だけはしてくるのだ。人を怒らせておいて、「難読なんです」と言い訳しておいて、なおかつ人の話をまったく聞いてない。

悪意はないのかもしれない。しかし、こんなのに耐えられるほど、私は寛大ではないし、私の心にも頭にもそんな余裕はない。私はあんたの実験のボランティア協力者ではない。私に限らず、Twitter上の誰でも。
最終的に、私にできるのは、Twitterで知らない人と話をする前に、リアル世界で、知人を相手に訓練すべきだというアドバイスをし、私がどこで怒っているのかを説明したうえで、二度と話しかけられないようにブロックすることくらいだ。また話しかけられでもしたら、本当に私がもたない。
あまりに相手がしつこいと、だんだんと、「急性心不全で死んだという人がいるときに、そんな死因はないとあえて述べることは、その人の『本当の死因』は別にあると言いたいのだ」と受け取るほうが、「普通ではない」のではないかと思われてくるのだ。(芸能人の噂が大好きな人が、思わせぶりな目配せをしながら有名俳優の死についてそう言っていたのは、何だったのか。)
「よく知りもしない人が知っている誰かの死因」について、一方的に雑談のネタにするなどというのは無神経だと思う自分のほうが、「普通ではない」のではないかと思われてくるのだ。
こちらがこれほどに傷ついていることなど、先方は知るまい。「普通でない」と言うことを許されているのは自分であって、相手は「普通」なのだ、と思っているのだから。
「普通」であろうがなかろうが、傷つくやり取りがあれば傷つくし、知り合いでも何でもない人にあんなにべたべた絡まれたあげく、最終的にあんな態度を取られれば(自己弁護・弁解の繰り返しと当方の問いかけへの無視)、誰だって頭にくるよ。あなたが「普通」であるかどうか、「難読」であるかどうかは、関係ない。
「雑談」というものが成立するには「共通点」が必要だ。「ツボが同じ」人であれば、ネット上でも、特に知り合いでも何でもない間柄でも「雑談」ができる。「共通の話題」であれば「雑談で盛り上がる」と呼べる状態にもなるだろう。同世代なら、子供のころのテレビ番組の話とか、定番のお菓子のことで盛り上がれる。だが、そのような「雑談」ができる相手というのは、実は限られている。
「今日は暑いですね」程度なら誰だって話せるだろうが、野球のことを知らない人(=例えば私)を相手に、ゴジラ松井のバッティングの技術がどうのこうのという話をしようとすれば、それは「雑談」ではなく「説明」になるだろう。こちらが話についていけないからだ。
当方も、話をする必要上、「説明」は求めるかもしれないが、だからといってゴジラ松井の技術についてその人と「雑談」することは求めないし、できない(雑談を求められて断ったら「もっと関心を持ちなさい」としかられたことはある)。しまいには、先方は「雑談したかった」はずが「いちいち説明させられて」うんざりしてしまうだろう。
自分が話したいわけでもないことについて、知らない人とそういう「雑談」をすることがあるとしたら、それはその相手と何らかの関係を作りたいときだ。
そうでなければ、知らない人とは、「今日は暑いですね」を超えるような「雑談」などしない。
突然の死の知らせのショックのあと、故人をまともに追悼したい(他人の言葉であれば、故人を知る人の言葉に接したい)ときに、知らない人からいきなり「人の死」について話しかけられて、そして「雑談」できるほど、私は度量のある人間ではない。
この文が、Cさんのお知り合いの目にどうか留まりますように。そして本人に何となくでも伝わりますように。私は2度と接触したくない。あの言い訳をだらだらと聞かされることを思うと、それだけでぞっとするし胃がきゅっとなる。
それからどうか、私がTwitterなどであなたのメッセージに応答しているということは、必ずしも、私があなたに関心を抱いていることを意味しない、ということを、どうかどなた様もわかってください。
……というわけで、基本的に、Twitterなどでは、どういう方なのかまったく存じ上げない方や、プロフィールなどからどういう方なのかがうかがい知ることのできない方には、今後、一切の「挨拶」を差し控えさせていただきます。基本的に「ブログ読んでます」に「ありがとうございます」と応答しただけなのですが、こういうことになってしまいました。これは、かなりのトラウマです。
社交辞令に過ぎない「挨拶」をすることによって、「私があなたに関心を持っている」(あなたの相手をしてもいいと考えている)と思われることがきっかけで起きる事象について、私はくたくたにくたびれてしまいました。
具体的なご質問・ご指摘に関しては、もちろん、できる範囲でお答えしたいと思いますし、旧知の方や、どういう方なのかがわかる方とは、「普通に」やり取りさせていただければと思います。
すべて、私のキャパが足らないため、私が至らないためです。このような方針をとることについて、どうかご理解たまわりますよう、お願い申し上げます。
消耗した。というより疲弊した。
— nofrills (@nofrills) May 31, 2013
※この記事は
2013年06月04日
にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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