「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2013年05月30日

「陰謀論」としての病

前項では少し、「陰謀論思考」について触れた。前項のみならず、最近書いたEDLにせよ「イスラム過激派」にせよ、その思想と思考と活動の背後には「陰謀論思考」が深く関わっているのだが、そういったことを個別具体的に検討するのはまたの機会としたい。

本稿では、英デイリー・テレグラフに掲載された「陰謀論」を経験した人の体験談についての自分のツイートを「まとめ」る。

なお、本稿のタイトルは、適当につけたが、元ネタは:

隠喩としての病い エイズとその隠喩 (始まりの本)隠喩としての病い エイズとその隠喩 (始まりの本)
S.ソンタグ 富山 太佳夫

他者の苦痛へのまなざし 反解釈 (ちくま学芸文庫) 同じ時のなかで 驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく) 神、人を喰う―人身御供の民俗学

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このように、すっかり「洗脳」がとけた状態になったチャーリーは、なぜ自分が「陰謀論」にはまったのかについて、次のように分析している(これが「最後の一行」)。

“Ego,” he says. “Ego made me vulnerable.”


つまり、ずっと「周りから認められなかった自分」が、そこでは「居場所」を得たのだ。「仲間」もいた。

「カルト宗教」によく似ていると思う。

「カルト宗教」は、リアル世界で出家するものが多いが、リアル世界とヴァーチャルの(オンラインの)世界との境目が曖昧になった2000年以降は、自室から一歩も出ずともオンラインで「世界的に名の知れた活動家」になることもできる。オンラインで、大物がほめてくれれば多くの人が自分を認知してくれる。

Twitterが使われるようになったあとでは、それは「フォロワー」や「RT数」として毎日、知覚できる数字として示される。

「よく言ってくれた」という人が10人いれば、それは「10」としてカウントされる。その場合でも、本当は、「やれやれ、またとんでもないことを言っているな」という人が100人いた場合、計算上は「-90」なのだが、それら呆れている人たちがオンラインで沈黙し、ただスルーするだけだったら、カウントは「10」のままだ。

……なんてことをね、このテレグラフ記事のコメント欄を、今日になって眺めて、思うわけですよ。



よくもまあこんなに殺到してこれるものだと。(見慣れた風景ではあるのですが。ガーディアンのコメント欄でもどこでも。また話題はWTC倒壊だけでなくシリア内戦でもリビア軍事介入でも。)

同時に、チャーリーさんまた脅されてるんじゃないかなあとかも心配になるわけっす。「テレグラフなんかにしゃべりやがって」と。

※この記事は

2013年05月30日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:59 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼