この映画についてのパンフレットで、「1993年」を説明しないでどうするのかと。映画の中にダウニング・ストリート宣言(に至る動き)が出てきているのに、その説明がパンフレットにない。それでいて「IRAと英国の和解が成立した現在」とか書いてある……えっと、「和解」なんていう事実あったっけ?(「和平合意」と「和解」は別ですよ。)
私だって何も知らないところから調べ始めたのだし、配給会社であれ誰であれ、元から知識があって当然などと思っているわけではない。しかし、資料が乏しいわけでも何でもない20年前のことを調べることくらいは誰にでもできる(配給会社なら英語ができないわけじゃないんだし)。本当に残念でならない。
というわけで、「1993年」について。教科書はアルスター大学の紛争研究サイト、CAINです。
http://cain.ulst.ac.uk/
まず、1993年とはどんな年だったか。ウィキペディア日本語版には「EECの欧州単一市場発足」、「米ロ、第二次戦略兵器削減条約 (START II)」、「米クリントン政権発足」、「NYCの世界貿易センタービル爆破事件」、「日本でロイヤル・ウエディング(皇太子)」、「新党さきがけ」、「ドーハの悲劇」などなどが挙げられているが(でも、「ハウス食品工業、ハウス食品に社名変更」とかは、いらんだろ)、北アイルランド情勢については何も記載がない。
一方ウィキペディア英語版では、3月20日のウォリントン爆弾事件(←詳細はリンク先参照)、10月30日のグレイスティール事件(ロイヤリスト武装組織UDAが、グレイスティールというカトリックの多い町のバーで銃乱射、8人死亡)、11月28日のオブザーヴァーの報道(IRAと英国政府が「バック・チャンネル」を通じて接触し続けていたことを報じた)、そして12月15日のダウニング・ストリート宣言がリストに入っている。
11月の報道は、コードネーム「山登り mountain climber」についてのものだろう。NYTが94年9月にそのころのことを一本の、とても読み応えのある記事にしているのが見つかった。
http://www.nytimes.com/1994/09/05/world/turning-point-ira-cease-fire-special-report-2-irish-foes-journey-deeds-words.html?pagewanted=all&src=pm
(この「コードネーム」というものの存在についてすら、パンフレットがスルーしていることは、ほんとに私の理解の外にある。物語のキーなのに。)(ネタバレ回避のため詳細には立ち入りません。)
アルスター大学のCAINでは「ピース・プロセス」についての項目を、1988年から始めているが、その2ページ目が1993年4月からだ。
http://cain.ulst.ac.uk/events/peace/pp9398.htm
※より完全な年譜は http://cain.ulst.ac.uk/othelem/chron/ch93.htm にある。4月24日にビショップス・ゲイトのボム……もう20年か。
SDLPのジョン・ヒュームとシン・フェインのジェリー・アダムズが接触していることが明らかになったのがこの頃。それぞれの政党の党員たちはトップのこの行動に反発したが、4月24日、両党首は合同で声明を出す。これが、1994年停戦、1998年和平合意(グッドフライデー合意)へとつながっていく。(ヒュームが「アダムズは本気だ」と請け合ったことで、「軍事的解決ではなく和平を」という流れが確定し、それに対する国際的な支援も固まった。)
一方で前年の1992年には、アイルランド共和国の首相がチャールズ・ホーヒーからアルバート・レノルズに代わる。どちらもFFの政治家だが(つまり、「総選挙で政権交代」があったわけではない)、70年代にIRAへの武器支援を画策していたとすら言われている「対英強硬派」のホーヒーが党内での求心力の低下(北アイルランドとは無関係)と連立相手のPDの態度から引退を余儀なくされ、ホーヒー内閣で財務大臣をつとめていたレノルズが首相となった(わかりやすく言えば「党内クーデター」である)。その後、1992年11月の総選挙でも、FFは議席を減らし単独過半数には及ばないながらも勝利し、レノルズは政権を維持した。アイルランド共和国政府の「対英強硬論」は、この時点で完全に過去のものとなった。(ただしその後も、政府の外では、対英強硬論は残った。)
その後に、英国政府とアイルランド共和国政府との間で、「北アイルランド問題」の「解決」に向けた交渉が進められた。それが結実したのが、1993年12月15日のダウニング・ストリート宣言である。
このころの政治的な流れを記録した映像。3分くらいのところから、ダウニング・ストリート宣言。
私もこのニュースはリアルタイムで知っている。ただし日本にいたので間接的にしか触れていない(当時はまだインターネットもなく、新聞の「国際面」が頼りだった)。
この宣言についてのジョン・メイジャーの言葉。「これ(=宣言)が閉じる扉は、暴力と不法行為への扉だけです。そして、これが最も重要な点ですが、これは暴力を捨てる者たちに扉を開くものであります」。
※信じられないほど地味なツーショットだな、しかし(笑)。個人的に、アルバート・レノルズは何度顔を見ても覚えられない。スパイ・スリラーに出てくる「有能なスパイ」の風貌の描写みたいだが、目を引く特徴らしきものがなく、平凡すぎて「初老の男性」という以外は何も記憶に残らない。
さて、私も相当オタクだと思うが、まだまだオタク度が足らないので、映画『シャドー・ダンサー』の中に出てきた「テレビ画面の中のニュース」が、12月のこの宣言のときのものか、それに先立つ10月29日にベルギーのブリュッセル(EU本部)で出した両国首相の共同声明のときのものかがわからない。これは映画を再見したときに確認しなければならない点だ。
いずれであっても、あの「テレビ画面の中のニュース」が、IRAにとっては究極的に「武装活動の終わり」を意味するものであったということには変わりない。
その「武装活動の終わり」が実現するのは2005年7月、英軍の作戦が終了するのは2007年7月だが、その間に、「和平という道を選んだIRA (= Provisional IRA) の主流」からの離反が起きた。2013年の現在も活動を続ける「分派」の組織(いわゆる「ディシデント・リパブリカン dissident Republicans」の諸組織)の中で最も危険で活発なReal IRA(現在は他の集団と合同したため、"the new IRA" などと表されている)が、はっきりとProvisional IRAとたもとを分かったのは1997年末から98年にかけてのことだそうだが、その「分派」という選択の萌芽は、1993年のダウニング・ストリート宣言のときには既に存在していた。
先の映画レビュー的な記事で、「彼らが1998年(グッドフライデー合意)にどう判断し行動したかは類推できる」と述べたのは、そのことである。
以下、ややネタバレ。映画を見るまでは読まない方がいいかもしれないので、文字色を背景色と同じにします。
↓ ↓ ここから ↓ ↓
コレットたちのリーダーであるケヴィンは、おそらく、その後、IRA主流派とたもとを分かったのではないかと思う。それは一時的なことだったかもしれないが、1998年8月15日のオマー爆弾事件でRIRAが「子供を殺す」までは、IRAのフィジカル・フォース絶対主義(「アイルランドの統一は武力を通してしか勝ち取れない」というもの)は根強かった。映画の中で、ケヴィンはその側を代表する人物だった。
一方、コレットの兄であるジェリーは、そんなケヴィンたちと例のパブで話し合ったときに、別の反応を示している。彼はその後、「和平」の側を選択したはずだ。
↑ ↑ ここまで ↑ ↑
完全に失念していたが、ダウニング・ストリート宣言について、2005年12月に自分でがっつり書いてた。
http://nofrills-o.seesaa.net/article/190027267.html
(元のエントリはWeb Archiveに残っている。)
実際この宣言は、「統一アイルランド」を主張するFianna Fail(アイルランド与党)と、「アルスターは英国に帰属」が基本にある保守党(英国与党)との間での共同宣言で、そこにいたるまでの段階で、北アイルランドのナショナリスト(「統一アイルランド」派)の“穏健派”と“過激派”すなわちSDLPとSFとの間でかなり入念な打ち合わせが行なわれていたり(SDLPはSFとFFとの間の橋渡し役でもあった)、米国のクリントン政権(もちろん民主党だが、この問題についてはアイリッシュ・アメリカンのサポートという点が重要)のバックアップもあったりして、かなり複雑である。
そして、それらの動きから取り残されていると強く感じたのが北アイルランドのワーキングクラス・プロテスタントで、この宣言から10年以上という時間の流れの中で彼らが代弁者と信じるようになったのが、政治的に決着をつけようということでGFA成立に寄与したUUPではなく、この和平への流れに終始一貫NOと強く主張してきたDUPである。
……ほんとに2005年の文章なのかな (^^;)
……2012年12月に突然巻き起こって2013年2月まで継続された「旗騒動」のときに書いた文だと説明しても、誰も疑わないだろうな (^^;)
1993年12月のダウニング・ストリート宣言の後、1994年4月、IRAは3日間停戦を宣言、同年6月、UVFがカトリックの男性6人をパブで射殺、その後シン・フェイン上層部と英国政府の秘密会合を経て同年8月末にIRAが停戦を宣言。同年9月からシン・フェインの政治プロセスへの参加がいよいよ始まり、10月にはThe Combined Loyalist Military Commandも停戦を宣言。しかし同年11月にIRAの強盗事件で郵便局員1人が死亡。
1995年2月には英・アイルランド両政府による「枠組み文書」(CAINで原文閲覧)が出され、その後英国政府とSFとの公的な会合が何度か行なわれる一方で、1990年に盗んだ車で検問所を突破した10代の男女を射殺し終身刑で服役していた英軍兵士Lee Clegg(パラ)が、北アイルランド担当大臣の命令で釈放されたことで各地のナショナリスト・エリアで暴動。また、ドラムクリーのオレンジ・パレードがRUCにブロックされたことで、プロテスタントも暴動。11月には武器放棄と全政党参加交渉についての両政府によるジョイント・コミュニケが出され、武器放棄への筋道が具体的になってきたが、翌1996年2月、IRAはロンドンのドックランズでの爆弾によって停戦を破棄。同年2月、マンチェスターでIRAの爆弾テロ。これに応じるものとしてUFFが活動を活発化。7月、エニスキレン爆弾テロ(IRAからの分派のCIRAによる)。10月、リズバーンの英軍HQに対するIRAの爆弾攻撃。
政治家の会合も頻繁に行なわれるなか、1997年4月までIRAは活動を活発化、ブリテンでの爆弾予告が相次ぐ。同年5月、英総選挙で労働党が圧勝、政権交代。その後も「提言」とか「暴動」とかがあって、同年12月、刑務所の中でロイヤリストの大物がINLAによって射殺されるという不可解な事件が発生、その後報復と見られるロイヤリストからカトリックへの攻撃が全土で発生。
1998年1月、服役中のロイヤリスト武装組織メンバーが和平プロセスには協力しないと宣言。数日後、北アイルランド担当大臣のモー・モーラムが彼らを説得したいと宣言、実際に2月上旬には彼女は獄中のロイヤリストたちと面会し、説得に成功。
その後も複数政党間交渉(NIの4大政党のうち、UUP、SDLP、SFが参加)が何度も続けて行なわれ、いくつかのドキュメントが出され、それが政党ごとに支持されたり拒否されたり、IRAの活動についてSFが交渉の席からbanされたりといった紆余曲折を経て、1998年4月、複数政党間交渉に参加していたすべての政党によって署名されたのが、「グッド・フライデー合意」である。
1994年停戦前のロンドンで、日常生活の中にIRAの「作戦」があるという日々の中にいたときは、将来、こういうふうに展開するとは思っていなかった。ただ漠然と、「いつかは終わるのだろう」とは思っていたかもしれないが、その中に居ながら自分はそれには関係なかったし、実のところ、さほど興味などなかった。
そのときに「興味がないから」といってニュースをシャットアウトするようなことをしていなかったことは、自分にとって正解だったと思っている。
※この記事は
2013年04月07日
にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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