「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2013年04月05日

The power of Twitter: 「面識のない人たちの間で情報が行きかうこと」が、人身の安全につながった例。

"The power of Twitter" というのは一種のセットフレーズだ。情報の拡散力を指すこともあり、間違っていたり詳細が不明だったりする情報を厳密化する「集合知」的なものを指すこともある。

例えば、2010年12月にチュニジアで何が起きているかを「世界」に知らせたのは、大手メディアではなくTwitterのハッシュタグ、#Sidibouzid だった(大手はその頃、「温暖な地中海南岸で週末ゴルフ」みたいな企画記事を載せていた)。私がフォローしている英語圏のジャーナリストは頻繁に、「このプラカードには何と書いてあるのか」、「かくかくしかじかという話を聞いたのだが、現地ではそんな話はあるのか」といった簡易ファクトチェックをTwitterでやっていたりする。それはTwitterに「人が多い」から可能なことだ。

あるいは、災害時には(それが発生した現地でTwitterを使っている人が多ければ)現地の様子を、マスコミ経由より早く、把握することができる。自分では音が出せない環境にいるときに記者会見のオンライン中継の実況(少し前に定着していた日本語でいう「tsudaり」)をリアルタイムでフォローして情報をいち早く手に入れるということも可能だ。

そして、より身近なレベルで、「広範囲に呼びかけて何かを探す」ということが行われる。「おすすめの店があったら教えてください」という、Twitterがあってもなくてもネットでよくある「情報交換」もあれば、私のところにもよく回ってくる「飼っている犬が行方不明になりました」、「猫を保護しています」のようなピンポイントのもの。頻度は高くないが、「認知症を発症している祖父が行方不明です」といったものもある。

BBC Newsの北アイルランドで話題になっているのは、そのようなケースでの成功例だ。

Twitter helped Belfast woman 'find missing mum'
4 April 2013 Last updated at 12:38 GMT
http://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-22029156


ベルファスト南部に暮らすダイアンさんは、水曜日の朝9時すぎに、2匹の飼い犬を連れて散歩に出た。しかし、午後のお茶の時間になっても戻ってこない。

ドニゴールまで出かけていた娘のジョアンヌさんは携帯電話で連絡を取ろうとしたが、電波の状況が悪くてうまくいかない。そこでジョアンヌさんは、TwitterとFacebookに「拡散願います」として次のような文を、ダイアンさんの写真を添えて投稿した。

This is my mum & she's gone #missing. Help try & bring her home safe #missing #belfast #plsRT #alzheimers

母の居場所がわからなくなってしまっています。無事に家に帰れるようご協力ください。 #行方不明 #ベルファスト #RT願います #アルツハイマー


「私はTwitterやFacebookが大好きですし、母が早く発見されるよう、なるべく多くの人に母の写真を見てもらわなければならないと思いました。善は急げ、ということで」

ダイアンさんはアルツハイマー病にかかっている。そのことを不特定多数の人に知られたいとは本人は思っていないだろうが、ジョアンヌさんはお母さんを無事に家に戻すことを優先してこのように書いたと語っている。

ジョアンヌさんのこのメッセージが「拡散」されるにつれ、きっと、北アイルランドでTwitterやFBを使っている多くの人が心配して、自分のいる場所の周りを見渡してみたりしたことだろう。

その中のひとりが、写真の女性を目撃していれば、それで事態はきっと解決する。ジョアンヌさんはそう信じていた。

(北アイルランドって、あれだけの紛争と不信に苛まれた社会であるにも関わらず、このような「人と人とのつながりへの信頼」は、基本的に、とても深いんです。ニュース見てるだけですが、私はそのことにしばしば感銘を受けます。それでも、孤立や孤独死ということは起きるのですが……武装勢力のメンバーで「殺人者」になった人の事例なども伝えられています。)

リズバーンに住むクリスティーナさんも、何百回とRTされたジョアンヌさんのメッセージを見たひとりだ。

リズバーンはベルファストの南西の郊外。昨年、ロンドン五輪の聖火リレーが通ったときにウェブ中継を見ていた人も多……くはないか。郊外といっても、ベルファストの住宅街が終わってゴルフ場や野原を挟んだ次の町である。

マップ:

大きな地図で見る

「夕方の6時頃でした。うちの居間でテレビを見ていたら、窓の向こうを、2匹の犬を連れた女の人が歩いていくんですよね。ちょっとふわふわした感じだったのであれっと思いはしたのですが、その時はそれで流してしまいました」とクリスティーナさんは説明している。

テレビの番組が一区切りついたのだろう、「その30秒後にTwitterにアクセスすると、オスカー・ノックスのアカウントが、ジョアンヌのツイートをRTしていたんです」

オスカー・ノックスは小児がんと闘う4歳児で、家族・支援者が運営するTwitterのアカウントは3万人を超えるフォロワーを有している。アカウント名のWee Oscarは北アイルランドの表現で、愛情と親しみをこめた、「オスカーくん」というような呼称だ(Weeはlittleの意味だが、もっとニュアンスがある)。

それが、いわば運命的だった。クリスティーナさんは「車に飛び乗って、近所をぐるっと回ってみました。さっきの女の人の脇をゆっくりと通って、びっくりさせないようにダイアンさんだと確認しました」。

クリスティーナさんは「うちに上がってお茶でもいかがですか」とダイアンさんを説得し(難しいことをうまくなさったものだと感心!)、その間にクリスティーナさんの夫(ここで登場という影の薄さがたまらない……)がジョアンヌさんと警察に電話で連絡。

こうして、ダイアンさんと2匹の犬は、無事に、ベルファストの自宅に戻った。

……と、ここで終わっていれば、The power of Twitterを示す「いい話」である。

それで終わらないのか、それとも終われないのか、この話には「オチ」がある。

発見者のクリスティーナさんの夫は、お前はいつもTwitterばっかりだなと小言をいっていたそうだ。「でも、もうそういうことは言えなくなりましたね」

実際に、こんなに具体的でわかりやすい「人助け」につながったということは、確かに、一種のパラダイム転換をもたらすであろう。

まだある。

「母は8マイルくらい歩いていました。まさかリズバーンにいるなんて」と語るジョアンヌさんは(ジョアンヌさんも)、「夫には、お前はTwitterばっかりで俺のことはほったらかしだなと言われているんですが、実際にTwitterと、見知らぬ人々の親切があってこそ、母が無事に家に戻ってきたんですから」。

予言:今週末は、ジョアンヌさん夫とクリスティーナさん夫がパブで落ち合って、グチる。これで万が一にでも「サポートしているサッカーのチームが同じ」だったりしたら……と考えるだけで脳内で映画化される。Twitter widowである夫たちと、football widowである妻たち……。

とにかく、ダイアンさんも犬さんたちもご無事で本当に何よりでした。

※なお、BBC Newsの記事には、ジョアンヌさんとクリスティーナさんはフルネームが出ています。配偶者の名前は出ていません。犬さんたちは写真はありますが(笑顔がかわいい)名前は出ていません。

※この記事は

2013年04月05日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 17:15 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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