「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2013年03月25日

それが桜でなかったら、木が切られてなくなったことに気づきすらしないかもしれない。(阿佐ヶ谷住宅に寄せて)

近所にこんな桜の木があった。

Tree, blossoms and lines

Tree, blossoms and lines (background: blue-sky;)

曇った日に撮影して、続いて晴れた日に撮影した。

樹齢が何年とかそういうことはわからない。ただ、非常に太くてどっしりとした、立派な木だった。住宅街で、道路に面していて、ご覧の通りに電線にもかかるので太い枝はずいぶん昔に切られていたが、こういうのを見ると「浮世絵に描かれた桜の木」がわかる、という視界が目の前に開ける、自分的「名木」だった。

「来年、また撮影しよう」と思った上掲の写真が、この木を撮影した最後になった。

何の予告もなく、この木があった敷地は、その年の夏から秋の季節にシートで覆われ、そして更地になった。5本か6本あった桜の大木は、2本を残して消えてしまった。伐採されたのだ。地面を揺らしながら通っていったあれらの大型車両のどれかに、その骸が積まれていたかもしれない。

そういうふうに、「最後」だということも(ほとんど)誰にも知らされずに切られてしまう見事な木が(といっても、ソメイヨシノの木そのものの寿命もあるだろうが)、東京には……というより私の周辺に何本あるだろうか。

いや、桜だからなくなったことに気が付くのだ。ほかにも季節ごとの存在感のある樹木(沈丁花、金木犀など)も「あれ、去年ここにあったよな」と思うことがよくあるが、そうでもなければ「ここ、工事してるけど、前は木があったよね」的な漠然としたことを一瞬思うくらいだ。あるいは気づきもしていないかもしれない。

そのへんをうろうろしていて、いかにも「相続税の物納」然とした、住宅街にぽっかりとあいた更地に出くわすことも稀ではない、そんな東京の住宅街で。

それが日常であるからこそ、自分がその中で育ったコミュニティでも何でもないけれども、阿佐ヶ谷住宅が姿を消していくことに、一定の感情を抱かざるをえないのだ。

【東京】杉並の阿佐ヶ谷住宅で(おそらく)最後のお花見を。
http://matome.naver.jp/odai/2136404389438203801


最後の花

それは「郷愁」ではない。私はそこに「いた」ことはないのだから。どちらかというと「追悼」の念だろう。角を2つ曲がって、何分か歩いた先にあったあの桜の木に対するような。隣の敷地にあった金木犀の木に対するような。虫が湧いたからと切られてしまった、名前も知らない、特に花もつけない広葉樹に対するような。

こうして、(阿佐ヶ谷の高級住宅街の空間のつくり方とはまるで違う)ぎゅうぎゅう詰めに建てこんだうちのあたりでは、「木」、特に「立派な木」というものは公園か寺社仏閣か、地主の家にしかないうようなものになる。枝を揺らす風のざわめきも、わざわざ出かけていかなければ耳にすることがない。

既に私が子供のころにはそれが「当たり前」の住宅街の光景だったが、ここ10年ほどの間に、いわゆる「団地」(社宅を含め)がどんどん建て替えられ(その多くはカタカナのシャレた名前を持った大手不動産会社のオートロックマンションになっている)、「そこにずっとある」という可能性以外は考えたこともなかったもの(一種のランドマーク。「コンビニの前を道路を渡ってそのまままっすぐ100メートルくらい歩くと、桜の並木がある団地があるので……」)が、ある日、ビニールシートや防音壁の向こうに消えて、そしてそれっきり二度と見ることはなく、そのあとに出現するのはタイル張りの巨大な集合住宅の壁。

あるいは、「老朽化」などを理由に取り壊されるかつての都営の文化住宅(今ネットで検索して出てくる用語集では「関西独特」とかいう話になってるけど、「文化鍋」、「文化包丁」など、昭和30年代の「新しい、洋風な」ものを表す「文化」という言葉は全国的なもので、関西が独占するようなものではない)……平屋で、長屋で、台所やトイレは共同ではなく各戸についているような。
文化住宅?と言ったっけ。
昔で言えば長屋なんだけれど、
同じ作りの平屋の家が何軒か...そう社宅のような建て方で
固まっている。

from 小津作品<お早よう>。(旧い映画を楽しむ。なでしこの棲家)

小津安二郎監督の「お早よう」は、1959年というから昭和34年の作品である。脚本は小津安二郎、野田高梧の両氏。佐田啓二、久我美子、笠智衆、杉村春子、沢村貞子といった俳優の名、若い人は知っているかどうか。舞台は郊外の文化小住宅、何軒あるのだろう、5〜6軒だろうか、賃貸のようだ。

この映画、“新しいもの”が次々と登場する。文化小住宅も戦後登場した勤労者向けの住宅である。団地も対比するように映し出されるが、佐田啓二はダンチ族である。フラフープ、電気釜、テレビ――当時の最先端が象徴のように紹介されていく。

from 昭和30年代の生活を知る貴重な資料――小津安二郎監督の「お早よう」

映画の文化住宅は、簡素で合理的で近代的だ。いま見てもすごくおしゃれである。こんな家に住みたいと思うほどだ。レトロなガラスのはまった引き戸、淡いブルーグレーのドア、白熱灯のペンダント、窓の格子、ぺらりとかけられたカラフルな一枚布のカーテン、モダン柄の襖、小さなあがりかまち、カウンターで仕切られた台所と勝手口、白ペンキで塗られた洗濯竿の支柱、おなじく白ペンキの柵。家具も、引き出し一段ごとに塗り分けられた整理ダンスが、昔ながらの和箪笥や文机と共存してチャーミングである。……

from 文化住宅


高校への通学路にこの文化住宅があった。正確に言えば、文化住宅の前の道路を通って通学していた。当時は何の木なのか気にしたこともなかった大きな木があり、家々の前には立派な紫陽花が咲いていた。奥に柿の木もあった。ずっと後になって再度その道路を通ったときには、平家の長屋は姿を消して、3階建ての集合住宅になっていた。

それから、以前住んでいたところの裏手が、このタイプの文化住宅の区画だった。共用の井戸があり、白髪頭のおばあちゃんが古びた鍋に水を汲んで、家の前の植木鉢に植えられた色とりどりのお花に水をやっていた。敷地内にはやはり大きな木があり、紫陽花などが咲いていた。山茶花の垣根が通りからの目隠しになっていた。ここも、ある時住民がいなくなり、家々のドアが板で封鎖され、そしてしばらくはネコがうろうろするなどしていたが、やがてショベルカーや大きなダンプカーなどが入った。うちにも「ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」的なチラシが投函されたが、特に「地域社会」(町内会)的なものに関わっていたわけではなく、再開発計画については何も知らなかった。音が響き、振動がする日々が続いてそこは更地になった。(デジカメで気軽に写真が撮れるようになる前のことで、残念だ。)

私たちひとりひとりが、そういう記憶を持っているはずだ。だからこそ「アーカイヴ」しようという動きが(個人レベルでも)あるのではないかと思う。

そして部外者としては、ただ、このあとにまた(完全に同じではないにせよ)同じような「共有」の空間が作られていくよう、願うことしかできない。(阿佐ヶ谷住宅は公営ではなく、私有の分譲住宅である。)

No matter what the future brings (阿佐ヶ谷住宅)


※撮影時に音声をOnにしていなかったので音楽をつけてあります。

下記は5年前のうちの近所での写真。この木ももうないと思う(「団地の桜」的な木が何本も切られているのでもうよくわからない)。

Untitled

※この記事は

2013年03月25日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 19:00 | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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